「ハイブリッド言語」は「英語」を滅ぼすか

グロービッシュは、ビジネス・コミュニケーションとしてだけでなく移民子弟の間にも広がっているのだ。


英語ではないグロービッシュの繁栄 - 絵本手帖

機能語 tool としての英語と、歴史と文化を担う時間語としての英語。(中略)


これからあと数十年くらいすると、非英語圏である中国と、独特の英語を発達させているインドの台頭の影響で、交易用英語の変化はさらに進んで、英米の言葉とは完全に別物になっているかもしれない。ビジネス英語はさらさらできても、英語古典はぜんぜん読めない層の増加。それは水村女史が危惧したどこかの国の未来と実によく似ている。


2009-02-03 - 雪泥狼爪


英語の (というより、バイリンガルの、かも) 話題になると変にかみつきたがるasahiです。ごめんなさい。(以前に変なふうにかみついたエントリは、これとか。)


ちなみに、私は子供を育てた経験はなく (それ以前の部分でも経験はな……、閑話休題)、子供たちが自分の母国語と異なる言語を獲得していくのを目の当たりにしたことがあるわけでもないので、以下に書くことは、実際にそのような経験をされた方の実体験や、それらにもとづく知見、意見、感情を否定しようとするものではない、ということをはじめに記しておきます。私は、どちらかといえば「セミリンガル」な子供たちに近い立場にいるとおもうので、理屈っぽい子供が反抗してやがる、くらいの感じで読んでいただければ幸いです。


で、冒頭で引用した2つのエントリ (と、それらで参照されている記事) を読んで、いくつかかんがえたこと。


(書いていたらちょう長くなってしまったので、格納してあります。「続きを読む」をクリックで展開。)


1.Globish と、アメリカにおける新規移民の子供たちが獲得する言語を同一線上におくことについて。

Globishも、「アメリカにおける新規移民の子供たちが獲得する言語」も、個人が第二 (あるいは第三、第四……) 言語として獲得する英語を主体とした言語であり、いわゆる「母国語」として獲得する英語とくらべると、単語数がすくない、表現の幅がせまい、異なるアクセント、文法が許容される、といった共通点は多くあるとおもいます。


ただ、外面的にはそっくりにみえるかもしれませんが、Globishが、国際ビジネス、という、人間社会を構成するほかの要素から断絶した (というより、正確には、実際は断絶していないけれど、自らを断絶していると表現したがる)、「普遍的で抽象的」 ("universal and abstract") な世界観、文化、習慣 (これも、正確には、実際には普遍的でも抽象的でもないけれど、そうであると主張したがる) をもった空間と密接なかかわりをもって存在している言語であるのに対し、「アメリカにおける新規移民の子供たちが獲得する言語」は、子供たち (と、新規移民である親たち) のローカルな生活空間と密接な関係をもって存在している言語だとおもうのです。だから、Globishは、「約1500語、ユーモア、比喩、略語を排す」という、普遍的かつ明確な定義であらわすことができてしまうけれども、「子供たちの言語」は、もっと複雑でややこしいもののような気がします。


Globishの日常生活の空間への侵出は、いわゆる「ビジネス」以外の空間への合理主義、自由競争主義、科学的マネージメントといった (ビジネス空間の世界観と強力にむすびついた) 主義、手法の侵出とおなじように、忌むべきものかもしれません。けれども、複数言語社会で育つ子供が獲得する言語をそれと同列にあつかって、彼ら、彼女らの将来や、英語の未来を悲観する必要というのはあるのでしょうか。


第1世代は母国語中心、第2世代は英語を獲得するが「母国語」能力を失いはじめ、第3世代以降になるとほぼ完全に英語、という、アメリカにおける新規移民と、新規移民の子供たちの英語能力の獲得、使用のパターンというのは、現在も過去もそれほど変わっていないはずです。(「母国語」集団別にみれば、ちがいは当然あるとおもいますが。) それに、アメリカという国は、新規移民の1.5世代 (あるていど成長してから親とともに移民した世代)、第2世代という層から、重要な文学者、思想家、研究者を輩出してきた国でもあります。(もちろん、社会階層やジェンダーによる差はありますが。) アメリカが移民によって成立してきた国であり、過去の移民の多くが、現在の新規移民とおなじように、母国での厳しい生活状況を逃れようとアメリカに移住してきたという「歴史」も、アメリカという視座からこの問題をかんがえる上で忘れてはいけないことだとおもいます。


昔の新規移民はちゃんとした英語を獲得できた (から文学者、思想家、研究者を輩出できた) けど、現在の新規移民はGlobishしか習得できないからあぶない、というのは、うーん、ありうるかもしれませんが、私はそうはならないとおもいます。



2. Globishやアメリカにおける新規移民の子供たちが獲得する言語はほんとうにhistory-less、culture-lessなのか (「時間語」ではない、のか)。

上でも書いたように、Globishは、国際ビジネスという固有で特殊な空間と密接な関係のある言語です。同様に、「子供たちの言語」も、彼ら、彼女らの生活空間と密接な関係をもっているとかんがえられます。微視的な視点からみれば (micro-socialのレベルでみれば)、どちらの言語も、思考、感情、行動などの共有をとおして、空間、時間が共有されることを可能にしているし、そういう意味ではhistory-lessでも、culture-lessでもありません。


私は日本で学部生だったころ、周囲にいわゆる「帰国子女」の学生がたくさんいる環境にいました。そこでは、初期のm-floの歌の歌詞のような、日本語と英語が自由にいれかわる文章で構成された会話が日常的におこなわれていました。モノリンガルな立場から、そういった文章を否定的にみる人は (残念ながら) おおいのだとはおもいますが、このような「ハイブリッド言語」を共有している人間同士では、それが思考、感情を相互に伝え、共有する上で最良の手段であるときがあるのです。そのようなコミュニケーションを可能にしている共有された前提、およびコミュニケーションから発生する共通の認識、行動、空間と時間の共有は、micro-socialなレベルでは「文化」(culture) であると言うことができるとおもいますし、そのようにして共有された空間、時間には「歴史」も存在します。「ハイブリッド言語」は、その「歴史」へのアクセスを可能にする言語でもあります。(「ビジネス」の世界にも、同様の「文化」と「歴史」は存在するし、それらへのアクセスを可能にするのは、ほかならぬGlobishです。)


もちろん、「時間語」という概念でいうところの「時間」は、micro-socialなレベルではなく、より長いスパンでみたものです。(これについては、次項でもう少し述べます。) ただ、micro-socialな「文化」や「歴史」を完全に無視して、Globishや「ハイブリッド言語」を一概にhistory-less、culture-lessなものとしてあつかうのには、個人的に抵抗を感じます。


(このような抵抗感をおぼえるのは、たぶん、私が、いわゆる「上流文化 (high culture)」の欠如を理由に、他民族や労働者階級をculture-less [あるいは、less cultured] なものとみなす、エスノセントリックで帝国主義的だった20世紀初頭までの欧米における文化人類学や「文化に関する研究」を否定的にみるよう教育をうけているからだとおもいます。)


(あと、上ですこし触れたように、「ビジネス」の世界というのは、実際にはそうではないにもかかわらず、自らを普遍的で抽象的 [すなわち、history-less、culture-lessでもある] と表現しがちであるので、Globishがhistory-less、culture-lessであるかのようにとらえられているのは、そういった傾向とも関係するのかもしれない。)



まとめると、私は、Globishというのは、「ビジネス」というほかとは断絶している (ということにしたがる) 空間でうまれた、その空間に固有の、その空間で共有されている前提、規範、価値観を反映し、その空間における他者理解 (だけ) を最適化するためのツールであるとおもうのです。そのツールが、本来存在していた空間以外の場所で幅をきかせるようになることは、ほかの「ビジネス」空間うまれのツール (合理主義、自由競争主義、科学的マネージメントなど) がほかの空間にはびこることと同様、好ましくないことかもしれません。(ただし、ツールそれ自体とその周辺には、上で述べたような「文化」や「歴史」がちゃんと存在している。「ツール」とか、「テクノロジー」というのも、一般的には「普遍的で抽象的でhistory-less」なものとしてかんがえられがちだけど、それらにも組み込まれた前提、規範、価値観があり、周辺には「文化」と「歴史」が存在している、というのは、社会科学の分野のひとつである科学技術社会論の研究者も論じていることです。)


アメリカにおける新規移民の子供たちが獲得する言語」(アメリカに長期滞在する日本人はあまり古典的な「移民」のカテゴリにはおさまらないので、こう書くと日本人の子供は入っていないのか、とおもわれるかもしれませんが、彼ら、彼女らもふくめて) というのは、仕組みこそおなじではありますが、「ビジネス」ほどには単純化されていない空間で、その空間で共有されている前提を反映して、その空間における他者理解を助けるための、Globishよりも複雑な存在だとおもいます。その言語の周辺には、micro-socialなレベルでだけかもしれないけれど、きちんと「文化」も「過去」も存在し、その言語を「母国語」とするコミュニティーが成立することもあるでしょう。だから私には、「ハイブリッド言語」を「母国語」として獲得することそれ自体に問題があるとはおもえないのです。



さて、長くなってしまったので、もう誰も読んでいないかもしれませんが、もう1点だけ。Globishに関する私なりの結論は、とりあえず上で述べたとおりなので、それに関する議論はおわりにして、次項では、「時間語」と「ハイブリッド言語」について述べます。



3. もしかすると「過去」がモノリンガルであることが問題なのかも。

これは、以前「時間語」に関する記事を読んだ (もしかすると、それもid:yukioinoさんのところでだったかもしれません) ときにも感じたことで、そのときにはうまくまとめられなかったのですが、今回もうちょっとかんがえてみました。


歴史や文化に触れることのできる言語、というのが「時間語」であって、これを獲得することができないと、その人 (なり、世代なり、なんなり) と、貴重な過去とのつながりが失われてしまう、というのが、「時間語」という概念が提起しようとしている議論の焦点なのだとおもいます。 (まちがっていたらご指摘いただければ幸いです。) ここでいう歴史や文化といったものは、私が上で言及したmacro-socialな意味での「歴史」、「文化」ではなく、もうすこし長いスパンでみた、いわゆる一般的な意味での歴史、文化です。


上述したように、「ハイブリッド言語」の周辺にも「歴史」と「文化」は存在し、さらに、m-floの楽曲や、アメリカにおける移民文学などのように、「ハイブリッド言語」をよりどころとした (micro-socialではない) 文化も少数ながら存在するので、一般的な意味での歴史、文化にアクセスする必要がなぜあるのか、それは結局、無批判な「上流文化 (high culture)」の尊重なのではないか、という方向の議論もできるとはおもいますが、それだと、ほんとうに親に反抗している子供のようなので (笑)、もうすこし、上で書いたようなことを中心にすえた方向からアプローチしたいとおもいます。


上で、「ハイブリッド言語」を「母国語」として獲得することそれ自体に問題があるとはおもえない、と書きました。これはもちろん私の個人的な意見で、世間的には、おそらく逆にかんがえる方のほうがおおいとおもいます。


なぜ、「ハイブリッド言語」を「母国語」とすることが問題であるとされるのか。「ハイブリッド言語」は「時間語」となりえないから、というのも、ハイブリッド否定派の論拠のひとつとしてあげることができるでしょう。


じゃあ、なぜ、「ハイブリッド言語」は「時間語」ではないと言われてしまうのか。その理由は、現代における「過去」(歴史や文化が帰属しているとかんがえられている場所) がモノリンガルであるからなのではないかとおもいます。たとえば、欧米や日本で「名作」とよばれる文学作品は、日本文学、英米文学、フランス文学……として、それぞれがモノリンガルである「独立した言語」ごとにわけられています。日本文化、イギリス文化、フランス文化……といったものは、それぞれの、モノリンガルな「独立した言語」で語られ、語り継がれるべきであるとされています。


けれども、「過去」をもっと広い視点からみてみると、「過去」がモノリンガルであった時代、というのは、実際それほど長くないのかもしれません。アフリカや中東、インドまで広げてしまうとおさまりがつかなくなってしまいそうなのと、それらの地域には詳しくないので、東アジアと欧米だけに話を限定しようとおもいますが、それでも、たとえば日本では、すくなくとも書きことばに関しては漢文がながいこと使われていましたし、中国でも、(文字はあるていど不変だったかもしれませんが) いくつかの民族の共存、交代がありました。欧米では長いこと、国ごとの「独立した言語」のほかにラテン語が使用されていました。


これらのマルチリンガルな「過去」が忘れられ、「過去」がモノリンガルなものになってしまった経緯には、おそらく、現代的な「国家」と現代的ナショナリズムの成立がすくなからず関係しているのではないかとおもいますが、わからないこともおおいし、ここでは深く論じません。ただ、どういうわけか、現代において、「過去」はモノリンガルなものである、歴史や文化はモノリンガルなものである、ということになってしまった。その「過去」にアクセスすることができないから、「ハイブリッド言語」は「時間語」ではない。だから、いけない。そういう流れになっているように私にはおもえるのです。


だけど、「過去」をモノリンガルであると決めつけたことによって、ある世代の現代人はマルチリンガルな「過去」とのつながりを失ってしまった。さらには、現在の社会で「過去」をつかさどっている世代の多数がモノリンガルであるために、「ハイブリッド言語」を獲得する (おおくの場合、せざるを得ない) 世代的あるいは地域的なコミュニティーは、「過去」へのアクセスを閉ざされてしまう。それだけでなく、「過去」に正当にアクセスすることのできないものとして、history-less、culture-lessな集団としてあつかわれてしまう。つまり、「ハイブリッド言語」獲得に関する議論において「問題」なのは、「ハイブリッド言語」を獲得していく子供たちなのではなく、現代における「過去」に対する認識にかくれている、モノリンガル中心主義的な視点 (monolingual bias) の存在なのかもしれません。


だから、もし「過去」とのつながりを保つことが大切なことだとかんがえるのであれば、「ハイブリッド言語」環境で育っていく子供たちが必要としているのは、「モノリンガル指向の(母)国語教育」なのではなく、「過去」を「ハイブリッド言語」でつたえることのできる人なのかもしれない。そんなこともかんがえました。