もし高校野球の女子マネージャーがH.P.ラブクラフトの「文学における超自然の恐怖」を読んでいたら

先日アップした「もし高校図書委員会の副委員長がH.P.ラブクラフトの「文学における超自然の恐怖」を読んだら」の表紙絵をCOCOさんが描いてくださいました。(Twitterでの希望的観測全開のつぶやきを拾ってくださり、ありがとうございました! COCOさんのブログはこちら→ http://horror.g.hatena.ne.jp/COCO/)


表紙絵は、「パブー」版の作品ページ (こちら→ http://p.booklog.jp/book/1701) から見ていただくことができます。本文1ページめに大きいサイズでも収録してあります。


また、この機会に、新エピソード「もし高校野球の女子マネージャーがH.P.ラブクラフトの『文学における超自然の恐怖』を読んでいたら」を「パブー」版に追加しました。(いきなり2本めから番外編っぽくなってしまっているのですが、これにはちょっとした訳が……。) 後日、こちらにも転載するつもりですが、行送り、段落送りの関係で「パブー」のほうが読みやすいような気もするので、そちらで読んでいただくのもいいかもしれません。


*「パブー」からは、(自動生成された) PDF、ePubファイルをダウンロードすることもできます。最新版に差しかわっていますので、以前ダウンロードしてくださったかたは再度のダウンロードをお願いします。


2010年7月1日追記ーー本文をこちらにも転載しました。「続きを読む」をクリックで全文展開します。


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The oldest and strongest emotion of mankind is fear, and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown.*1


「『人類が抱く感情のうち、もっとも古い起源をもち、もっとも強く作用するものは、恐怖である。そして、恐怖の中で、もっとも古い起源をもち、もっとも強く作用するものは、未知なる存在に対する恐怖だ』」
 私が引用を終えて口を閉じると、居心地の悪い沈黙がその場を支配した。
「……それは野球とどういう関係があるんだ?」
 主観的には奇妙なる永劫ともおもえるくらいの時間が流れたあとで、私の前に立っていた大河 (彼の名前は、この漢字で「おおが」と読ませる) がようやく言った。
「さあ」
 私は、そう答えるしかなかった。
「さあ、じゃないだろ。ちゃんと解説してくれよ」
「解説もなにも、私にもさっぱり。とっさにおもいついた文がコレだけだったんだから、仕方ないでしょ」
「だからってなあ」
「だいたい、本をたくさん読んでいる人が知識をたくさん吸収しているとは限らないんだよ。そういう目でひとを見るのが間違ってるの。それに、知識があるのと持っている知識を状況に応じて運用できるかどうかというのは、完全に別の問題だし」
「うやむやにするなって」
「うやむやにしようとしてるんじゃないってば! そもそもは、あんたが……」
「でも、いまのスタイルだと、たしかに相手を圧倒するような怖さはないですよねえ」
 助け舟は、意外なところから突然やってきた。私の横に腰かけて会話を聞いていた外 (そと) さんだ。
 頭がやわらかい (好意的に解釈すれば) というのは、こういうときに役に立つ能力なのかもしれない。
「ランナーが出たら、ワンアウトでも、打順が何番でも、送りバントなんでしょう」
「オレらぐらいのチームだったら、どこでもそうしてる。強豪校やプロ野球じゃないんだから」
「だけど、それだと、なにをしてくるのかが予想できるから、ピッチャーや内野陣にプレッシャーをかけることができないんじゃない?」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「だから、井高 (いだか) くんを4番にしたらいいとおもいます。体が大きいし、パワーもあるから、相手は重圧を感じる」
「でも、あいつはブンブン丸だからなあ」
「それは関係ないですよ。怖さを感じさせるのが大事なんです。それに、意外性のあるバッターのほうが、ピッチャーも気をつけないといけない」
 そういうことですよね、ね、福良さん。
「う、うん。そんな感じかも……」
 突然話が戻ってきて、私はうろたえる。
 もともと、最初に大河がしてきた質問にしてからが変なものだった。最近、練習試合でも勝てないし、チーム全体の調子も落ちてきてるような気がするんだ。お前、本とかいっぱい読んでるみたいだし、なんかいいアドバイスない? 彼は、そう聞いてきたのだ。
 私は自分の好きで読書をしているだけなのだから、野球に関係する本なんか読んでいるわけがない。
 とんでもないムチャ振りだった。
 

*****


 放課後の校庭。バックネットの横の、トタン板をかぶせただけのベンチ。
 だいいちに、私がそこにいること自体が、とんでもないムチャ振りの産物なのだった。
 2学期の始業式の翌日。
 その日は図書委員の当番があった。
 夏休みの長期貸し出しから戻ってきた本の配架をしたり、司書の阿弥陀寺先生のコーヒー談議に耳をかたむけたりしているうちに時間が経っていて、図書室を出たときにはもう6時をすぎていた。
 私が校門脇の駐輪場に自転車を取りにいくと、ちょうどおなじくらいのタイミングで男子生徒がひとり、雨よけの屋根の下に入ってきた。
 短い髪をつんつんぴっぴと立て、ビニールのような素材でできた四角いスポーツバッグを肩から斜めにかけている。制服の白シャツの半袖の先の腕と、襟元からのぞく首のあたりは日に焼けて真っ黒だ。ちらりと見えた横顔は、彫りの深い輪郭で……。
「あ」
 私が声を上げると、男子生徒はそれに気づいたのか、こちらをむいた。
「お」
 糺 (ただす) 大河。3軒先の家に住む彼と私は、保育園、小学校、中学校、そして、いまの高校にいたるまで、ずっとおなじところに通っていた。私たちは当然おぼえてはいないけれど、生まれた産院と、公園デビューした児童遊園もいっしょだったと聞いている。
 女子と男子、運動系と文化系ということで、小学校高学年になったころからはほとんど喋らなくなってしまったが、いわゆる幼なじみの腐れ縁、というやつなのだ。
「部活?」
 私が訊ねると、彼は、おう、と答えた。
「福良 (ふくら) は?」
「委員会」
「なんだっけ」
「図書」  
 それ以上は特に話すこともなかったものの、帰り道は完全に同一ルートだし、別々に帰るための言い訳をひねり出すのも面倒だった。それは相手も同様であったらしく、ふたり並んで黙って自転車を漕ぐことになった。
 私たちの通学路は、途中、短いあいだだけ河川敷の道を通る。
 その真ん中くらいまで行ったところで、大河は突然自転車を止めた。
 私もつられてブレーキをかける。
「どうしたの?」
 大河は、対岸の工場街のむこうに沈みつつある太陽を、なぜか真面目な面持ちで見つめているようだった。
 彼の顔は夕映えの光をうつして赤く輝いていた。
 川風が私たちふたりの頬をやわらかく撫でていく。
「あのさ」
 しばらくして大河が言った。
「うちの部のマネージャー、やってくれないか」
「はぁ?」


*****


 私たちの学年が入学する数年前まで、この高校は女子校だった。加えてスポーツ推薦のような制度も一切ないため、我が校の野球部はそれほど強くない。
 さらに、野球部の監督は趣味で就任したとささやかれている社会科の初老の教師で、好きでやっていることだから野球には詳しいはずなのだけれど、指導しようという気は皆無らしく、試合のときにはさすがにベンチ入りするものの、毎日の練習に顔を出すことも、ゲーム中に采配をふるうこともなかった。
 よく言えば生徒の自主性を尊重した態度、悪く言えば単なるほっぽらかし、ということだ。
 必然的に、メンバーの選定やサインの確認、さらに作戦立案まで、部員でまかなうことになる。そして、だいたいそういう仕事がまわってくるのは、最高学年、特に主将、副主将あたりの重要ポストの人間ということになるのだった。そのあたりはまあ、図書委員会とたいして違わない。
 で、夏休み前にあった全国高校野球選手権大会 (「夏の甲子園」のことだ) の地方大会1回戦で敗退し、3年生が引退したあとで新主将に選ばれたのが、エースピッチャー候補でもあった大河だった。
 新チームには、めずらしく野球経験の長い部員がそろった。
 秋季大会ぐらいだったら久々に1回戦を突破できる可能性もある。
 なのだが、いまひとつ全体の士気が上がらない。
 甲子園という比較的わかりやすい目標がある夏の大会では全校応援がおこなわれるのに、ほとんど新人戦扱いの秋の大会にはそれがない。せいぜい家族や友人が冷やかしにやってくる程度。
 それもモチベーションの停滞の一因なのではないだろうか。
 そういう状況で、皆を奮起させるにはどうしたらいいか。
 女子マネージャーだ。
「それで、福良にマネージャーをやってもらえないかとおもった」
「なんで私? 野球のことなんか全然知らないよ」
「それは別にいいんだ。マネージャーだから」
「はあ。じゃあ、それはいいとして、そもそも女子マネージャーがひとり入ったぐらいで、みんながんばっちゃったりするものなの?」
「男子高校生なんてそんなもんだ」
「そんなものか」
「いや、そこでそんなにあっさり納得しないでほしかったんだが……」
 こうして私は、秋季大会で負けるまで、という約束で野球部の女子マネージャーの仕事をすることになった。
 これをムチャ振りと言わずしてなんと言うべきか。


*****


 以上が私が現在、図書委員会副委員長としての責務を放棄して (もっとも、たいした責務があるわけではない、という事実は付記しておく) 野球部のマネージャーをしている理由だが、私に加えて文芸部員の外ほとかさんがこの場にいることについても多少の解説が必要かもしれない。
 大河の頼みを引き受けた次の日からさっそく、私は野球部の練習に顔を出した。
 それまで体育の授業と大掃除のときにしか使ったことがなかった運動ジャージを着て私が前に立ち、大河が、今日から女子マネージャーをしてくれることになった2年の福良さんです、と私のことを紹介すると、整列した20人ほどの部員たちがざわついた。
 ただ、それまで長いことマネージャーなしでやってきた部だったから、練習がはじまってしまうと、私は手持ちぶさたになってしまった。
 女子マネージャーに実際になにをしてもらうか、というところまで、誰も頭がまわらなかったのだろう。
 本でも持ってくればよかった、と一瞬おもったけれど、まわりが汗をしたたらせてノックやランニングに励んでいる中、ひとりだけ日影で読書というわけにもいかない。
 まだまだ残暑の厳しい日だった。
 バックネットの横、ベンチのトタン屋根の下に置いてあるウォータージャグの中身が、皆が休憩をとるたびにずんずんと減っていった。
 私は、次に練習が切れるときまでにそこに水を補充しておくことを自分の仕事にすることに決めた。
 体育館の脇にある外水道を使って水を入れ、重くなったジャグを両手にさげて戻る。
 グラウンドは校舎と体育館のある敷地よりもやや低くなっていて、その段差を越えるために、短いコンクリートの階段がいくつかある。
 私が、そのうちのひとつに足をかけたときだった。
 突然、背中になにかが勢いよくぶつかってきた。
 私はつんのめり、階段下の地面にべちょっと落ちた。
 幸いなことに、落下したのは4段ぶんくらいだけだったし、とっさにジャグを離して手をついた (という表現だと、あたかも私が俊敏な反射神経の持ち主であるようにも聞こえるが、ものは言いようで、背中にぶつかられた衝撃でジャグが手から離れてしまった、というほうが事実には近いかもしれない) ので、私自身は手のひらを軽くすりむく程度の被害しかうけなかった。
 しかし、放り出されてしまったジャグのほうは、受け身を取ることもかなわなかったとみえ、グラウンドの茶色い土に叩きつけられて、蓋と胴体があわれ泣き別れになっていた。
 そしてその横に、女子生徒がひとり、しゃがみ込んでいた。体じゅうから水をしたたらせて。
「ごめんなさい。怪我はないですか」
 そう言った彼女の顔には見覚えがあった。
 おかっぱのような髪型。まっすぐに切りそろえた前髪は濡れそぼり、額に貼りついている。すこし垂れぎみになっている太い眉。二重のまぶたと長い睫毛。2年生の文芸部員、外ほとかさん。放課後の図書室の常連のひとりだ。
 そこの上を――と、彼女は、校舎側の土地が高くなっているところのいちばん端を縁どるように設置されている、低いコンクリート壁のようなものを指さした――バランスを取って歩いていたつもりだったんですけど、落ちてしまいました。
 いったいどういうふうに交錯したのかは一切想像がつかなかったけれど、その過程で彼女は私の背中に当たり、ジャグからぶちまけられた水を全身に浴びたようだった。
 水の染みた夏用の白いセーラー服の布地が素肌にぴっとりと貼りついて、皮膚の色や下着の線があらわになってしまっている。同性だとはいえ、これはちょっと、目のやり場に困る。それに、むこうのグラウンドには大勢の男子生徒が走りまわっているではないか。
 けれども彼女は、まったく動じていないような口ぶりで、私にこう訊いてきた。
「副委員長さんは、こんなところでなにしているんですか?」
 かくかくしかじか、と私が経緯を話すと、どういうわけか彼女は興味を持ったようだった。
 その日から、野球部のマネージャーはふたりに増えた。


*****


「見逃し三振だけはするなよお」
 私の隣で枡目の中にばってんを書き入れながら、外さんがつぶやく。
 意外なことに、というべきか、彼女はスコアブックがつけられるほどの野球通で、マネージャーという役職においては私などよりもよっぽとチームに貢献しているのだった。
 小学生のころ、県営球場にパ・リーグの球団がキャンプにきたことがあったでしょう。なぜそんなことまで知っているのか、と訊いた大河に、彼女はそう答えた。そういえば、そんなこともあったっけ、と私はおもった。紅白戦やオープン戦を何試合もやったから、毎回観にいっていたんです。そのときに、よくいっしょになるおじさんに教えてもらいました。
 私たちふたりは、西日がじりじりと照りつける市民球場のバックネット裏スタンドに、頭からスポーツタオルをかぶって並んで座っていた。
 秋季大会の県大会1回戦。
 3-1とリードされてむかえた9回の裏。
 内野ゴロふたつであっさりとツーアウトを取られてしまったあとで、我が校は粘りをみせた。
 1番の西くんがセンター前ヒットで出塁。2番比久間 (ひくま) くん、3番日出 (ひので) くんが四球を選んで続き、2死満塁。
 打席には4番の井高くんが入る。
 上背を誇示するようにバットを高く構えて威風堂々といったふうに立った井高くんだったが、初球ボールのあと、1球、2球と見送った投球がストライクになり、あっというまに追い込まれてしまった。
 ここで敗退すれば、私も外さんもマネージャーの仕事から解放される。
 そういう意味ではこの試合に勝たないほうが都合はいいのだけれど、1ヶ月くらい練習につきあってきたチームがあっさり負けるのを見るのもなんとなく悔しいという気持ちがここにきて湧いてきたようで、私は無意識のうちに、がんばれー、がんばれー、と声に出していた。
 次の1球は右打者の井高くんの外角に大きく外れ、捕手がタイムを要求してマウンドに歩み寄る。
「お祈りをしたらどうでしょう」
 唐突に、外さんがそんなことを提案した。
「祈りがどこかに通じて、勝っちゃうかもしれないですよ」
「そうかなあ。まあ、やるだけやってみようか」
 私は両手を顔の前で合わせて目をつぶり、口の中で呪言をとなえた。
「いあいあ、はすたあ、くふあやく、ぶるぐとむ。ぶぐとらぐるん、ぶるぐとむ……」
「いったいなにを召喚する気ですか」
「いや、なんとなく、これしかおもいつかなくて」
 そのとき、それまで蒸発した水分がすべてじっとりと停滞していたようだった球場を、一陣の風が吹きすぎたような気がした。
 ホームベースの後ろにキャッチャーが戻って、プレー再開。
 9回裏、ツーアウト満塁、ツーボールツーストライク。
 ピッチャーが投じた5球め、ほぼ真ん中の直球を井高くんは強振した。
 かきん、という金属バットの響きを残して、打球はレフト方向に高々と上がった。
 上がりすぎて、誰もが平凡なレフトフライになるとおもったはずだ。
 けれども、ボールはなかなか落ちてこなかった。
 風に乗って歩くように伸びた。
 そして、追っていった左翼手が、あきらめて見送ろうとした瞬間、突然推進力を失ったかのように落下して、フェンス際に転がった。
 ホームランにはならなかったが、滞空時間が長かったため、スタートを切っていた1塁ランナーがホームインするのには十分だった。
 走者一掃、サヨナラヒット。
 かくして野球部は念願の1回戦突破を果たした。


*****


 2回戦。
 この試合は平日の授業時間中におこなわれたので、応援に来たのも公休が認められた野球部員 (のうち、ベンチ入りしていない数人) と、私と外さんのふたりだけだった。
 対戦相手の商業高校も似たような状況で、だから観客のほとんどいないゲームであった。
 当然ながら1回戦よりも苦戦することが予想されたけれど、両チーム無得点だった5回の表、我が校の打線がポンポン、とつながって2点を先制。投手をつとめた大河も反撃を1点におさえ、そのまま9回の裏の攻撃をむかえた。
 ファウルフライでワンアウトはあっさり取ったものの、それで勝ちを意識してしまったのか気が抜けたのか、そこから大河は崩れた。
 甘く入った変化球を痛打されて2塁打。次打者は送りバントでツーアウト3塁となったが、そのあとで四球と死球を与え、満塁のピンチを招いてしまった。
 敵チームの3番打者が打席に入る。
 がっしりとした体つきに精悍な顔の左バッター。いかにも打ちそうだったし、実際、今日は大河から単打を2本放っていた。
 一打逆転のシーン。
 閑散とした相手側の応援席が、この日いちばんの盛り上がりを見せる。
 大河は初球からたてつづけに3球ボールを投げた。
 制球が定まらなくなっているのが、傍から見ていてもあきらかだった。
 押し出しで同点だね。
 私はそうおもったのだけれど、次からの2球はファールになって、どうにかカウントは持ち直した。
「ここがお祈りパワーの使いどころですよ。今日はわたしに任せてください」
 突然、外さんがそう言って、スコアブックを私の膝の上に移してきたのはそのときだった。
 それから彼女は目を閉じて、胸の前で合掌する。
「勝ちますように。勝ちますように」
 早口でそれだけとなえたその祈りが、どこかに通じたとはおもわない。
 しかし、大河が投じた次の1球――ど真ん中の、力のない直球だった――を、バッターは微動だにせずに見逃した。
 ストライク、バッターアウト。ゲームセット。
 マウンドに歓喜の輪ができ、応援の野球部員がネットに駆け寄る。 
 ベンチ内では整列をするための準備がはじまる。
 その中で、最後の打者になった相手チームの3番打者だけは、ほうけたようにバッターボックスに立ちつくし続けていた。
 あまりにも簡単なボールに手を出しそこねたショック。それはもちろんあっただろう。
 けれども、それだけでは、球審と監督にうながされてやっと列に並んだ彼が浮かべていた恐怖ともとれる表情を説明しきることができないような気が、私にはした。
 彼は、見てしまったのではないだろうか。
 最後の1球を投げる前。大河がセットポジションに入ったときに、私が私がバックネット裏から見たのとおなじものを。
 大河の背後でゆらめいた、人型をした陽炎を。
 それは、真夏とほとんど変わらない強さでぎらぎら輝いていた9月の真昼の太陽がつくり出した、蜃気楼のようなものだったのかもしれない。
 けれども、それを目にしたときに感じた不吉さを、私は忘れることができない。


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 3回戦。
 外さんと私のお祈りパワーを使う暇もなく、我が校は敗れた。
 初回にいきなり8点を失った大河は、その後もずるずると失点を重ね、打線も相手投手をまったく攻略できず、むしろ清々しいくらいのコールド負けであった。
 かくして私の非日常に終止符が打たれ、図書委員会副委員長として過ごす平穏な日々が戻ってきたのだった。



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*1:Lovecraft, H.P. (1938) "Introduction" in Supernatural Horror in Literature. Text from Wikisource (http://en.wikisource.org/wiki/Supernatural_Horror_in_Literature/Introduction). 翻訳文は筆者による。