冷たい肌

Cold Skin

Cold Skin

よみました。原作はカタロニア語で書かれたもの。私は、英語訳版をよみました。クトゥルー神話的な怪物が登場する、孤島でのパニック/サバイバルホラー。なんですけど……。


文化人類学というのは、もともとヨーロッパ諸国の帝国主義、植民地の拡大と深い関係のある学問でした。(まあ、そのあたりの思想をとりこんだ日本も無関係ではないのですが。) あたらしく「発見」した民族を理解するための学問、という位置づけだったのですね。でも、その学問としての存在意義は、「未開人」の文化の破壊や民族虐殺を容認した理屈とおなじ思想を前提としていた。どちらも、ヨーロッパを (あるいは「日本」を) 頂点とした社会的進化論にもとづいて、「未開」な人々を、理解することのできない他者 (あるいは、「発展していない人類」としてしか理解することができない他者)、殺してもかまわない他者として扱っていました。現代の文化人類学というのは、そういった過去があったことを自省的にみて、研究対象となる「他者」を他者としてみないようにするよう、努力しています。けれども、「他者」を自分たちと同等のものとしてみたところで、果たして彼ら彼女らをよりよく理解することにつながるのか。彼ら彼女らの地位向上につながるのか。観察対象である彼ら彼女らと親しくなったところで、よりよい理解につながるのか。そのあたりは、いくら学術的な議論を尽くしてみても、よくわからないところなのだとおもいます。


この作品は、クトゥルー神話的な奇想をベースにして、そういった文化人類学が (ひいては、現代社会、特に「先進国」が) 孕んでいる問題点を指摘したもの……なのかどうかは作者に聞いてみないとたぶんわからないのですが、すくなくとも私は、途中まで、そういう話なのかなー、とおもいながら読んでいました。紹介文によると、作者は人類学者でもあるようですし。(最初に作者紹介を読んでしまっていたので、その知識が読みに影響したのかもしれないですが……。) まあ、でも、この解釈だと、最後のほうのシーンが説明できないかな、というような気もしますし、自分がこうあってほしい、とおもっていることを作品に押し付けてしまっているのかもしれないですね。


あと、ちょっとおもったのは、


1. 会話がなんか不自然だ。−−これは、翻訳の都合かもしれません。ヨーロッパ言語から英語への翻訳って、結構直訳っぽくすることも多いようなので。日本語訳版だとどうなのかな? でも、主人公とグルーナーは、おそらくそれぞれの母国語ではない言語を共通語として使っているはずなので、不自然になるのが自然かもしれないなあ、ともおもったり。意図されているのかいないのか、どちらなのでしょう。


2. ちょっとだけネタバレかもしれませんが−−灯台に同居している魚人が「家の中にあるものに重石をのせようとする」のって、理解することができない行動のひとつとして描写されていますが、実は魚人も自らの社会では家財道具とかを持っていて、「文化的な」生活をしていることを示唆しているんでしょうか。海の中だと、所持品に重石をしておかないと、全部浮かんでいってしまうから……。



えっと、あいかわらず、感想にも書評にもなっていない感じで申しわけないのですが、襲撃シーンははらはらするし、ブンガク的な読みをしようとすればできなくもないし、私は楽しく読みました。って、こんなんじゃ、これから読もうとしてるひとの参考にならないよな……。