11月15日、土曜日。(その11)
インスマスの町から、インターチェンジまで。車ならば15分もかからない距離のはずだが、1時間以上は歩いただろう。
体はすっかり濡れ、冷えきってしまっていた。
道路がすこし登り坂になっているところを越えると、降りしきる雨の幕のむこうにぼんやりと、ガソリンスタンドの緑色の看板が見えてきた。
併設されているコンビニエンスストアの店内の灯りが白くこぼれているのもわかる。
私は、ときどき膝の力が抜けてしまいそうになるのをこらえながら、その光をめざして進んでいった。
ガソリンスタンドの前に立つ。
蛍光灯の青白い光をこれほど暖かく感じたのは、はじめてのことだった。
ガラス扉を、全体重をかけるようにして、なんとか押し開ける。
店内に入った瞬間、これまで緩めないようにがんばっていた緊張の糸が一気に切れ、私は床に崩れおちてしまった。
カウンターのむこうにひとりだけいた店番の男が、私のほうに近づいてくる。
「魚人の群れに追われているんです。助けて」
私は、力のない声で、男に訴える。
「その魚人というのは」
男は答えながら、かぶっていたフードをうしろにずらす。
「こんな顔をした奴らかね」
自分があげた叫び声で、目が覚めた。
長い距離を走ってきたあとのように、呼吸が荒くなっている。
汗をびっしょりとかいていて、体を起こすと頭がすこしくらくらした。
私は、アパートの自分の部屋の、自分のベッドの上にいるのだった。
「よかった……」
私は大きく息をついて、掛布団をかきあわせ、もういちど横になった。
乾いたシーツの肌触りが心地よい。
インスマスから逃げ出したあと、実際に駆け込んだガソリンスタンド兼コンビニエンスストアの店員は、よくいえば寛容な、悪くいえば危機感のない、老年にさしかかった男だった。
どうやら以前にもそういうことがあったらしく、詳しい事情を聞かないまま(私も、説明できるような状態ではなかったけれども)、私のことをボーイフレンドと喧嘩をして道中で放り出されたものと決めつけ、店の電話を使わせてくれ、それから、連絡をとったニシちゃんが到着するまで、暖房の前の椅子をすすめてくれた。
ニシちゃんを待つ間にも、いろいろと話しかけてきてくれたのだが、私は、いつこの店のドアが開いて、魚の顔を持った一団がなだれこんでくるか、それが気がかりで、うわの空の返事しかできなかった。
「カウンターの裏にショットガンが隠してあるからよ、もし男が追っかけてきたら、それで追い返してやるから」
店番の男はそう言って笑っていたが、店に入ってくるのが魚人の群れだったとしても、同じ対応をしてくれるのだろうか。
あるいは、もしかすると、ニシちゃんの車が、私を追ってきている者たちによって襲撃されているかもしれない。助けは永遠に来ないのかも……。
その不安は杞憂に終わったのだけれども、彼女の車がコンビニエンスストアの前の駐車スペースにすべりこんでくるまでの30分足らずが、とてもとても長い時間に感じられた。
アーカムに帰る道のりの間、私はずっと、運転しているニシちゃんの横で、助手席にちいさく丸まっていた。体の震えと、涙が止まらなかった。
アーカムの自宅にもどってきたのは、日曜日の早朝だった。
それから私は、しばらく寝込むことになった。
体温計で計ってみても熱はないようなのだが、悪寒と目眩と吐き気に悩まされつづけ、数日は食事も喉を通らなかった。
夜中にずぶ濡れになって歩きまわったせいで風邪をひいてしまったのか、それとも、ほかの原因があったのか、それはわからない。
眠りに落ちると、かならず夢を見た。
夢の中でいつも、私は魚の頭を持った異形の者の集団に追われていた。
逃げようと、石畳の道を走っていくと、いつのまにか、沼のようなところに踏み入れてしまっている。
黒い、どろどろとした、悪臭を放つ物体に足をからみとられ、動きがとれなくなる。
もがけばもがくほど、体はずぶずぶと沈みこんでいく。
そんな私のまわりに、四方から魚人たちが迫ってくる。
異形の者の群れを率いているのは、ときに、水掻きのある手と鱗におおわれた頭を持った巨大な生物であり、ときに、人間の女性だった。あの、先週の土曜日の夜に会った、「インスマスの外見」をした日本人の女性なのだ。
夢はまれに、逃げ場のなくなった私のもとに、どこからともなくニシちゃんがあらわれて、『マトリックス』の主人公ばりのアクションで魚人の集団を蹴散らしてくれたり、同じくニシちゃんが、ひきつれてきた死者の群れをあやつって魚人たちと闘ってくれる、という展開になることもあったけれど、たいていの場合、私はひとりきりで、追いつめられてしまう。
そして、魚人の顔が目の前に迫り、もうだめだ、とおもったそのとき、夢から覚めるのだ。