英語人格

「英語を(おそらく、第二言語として)使っているときには、別の人格が発現しているのではないか」という話。こちら(2008-10-25 - 雪泥狼爪)で話題になっていました。


で、私は、この話に関しての本を読んだことがあるわけでもないし、議論を追いかけてみたわけでもないので、的はずれなことを言っているかもしれないのですが、ちょっとおもったこと。


「人格」というものをどう定義するかにもよりますが、人間の「人格」、「自己」といったものは、一般にかんがえられているほど「単一」で「確立」されたものではない、と言うことはできるとおもいます。たとえば、G. H. Meadをはじめとした、象徴的相互作用論の説くところによれば、「自己」というのは「状況」によって決定されるものです。おおざっぱにいえば、仕事場の自分、家庭の自分、親しい友人といるときの自分、買い物をしているときの自分……といったものは、すべて異なるものだし、そうであるのが「自然」な状態、ということです。


(就職試験のときなどにやらされる「自己分析」といったたぐいのものは、そういった可能性をまったく無視して「自己」を「分析」しようとしますが、背景になる「状況」がまったく与えられていない「あなたはリーダーシップをとるタイプですか?」という質問に「はい/いいえ」で答えるのは無理だと私はおもってしまう。かんがえすぎと言われればそうかもしれませんが。)


その視点からみると、「英語人格」というものが独立して存在することは、1)別に「英語(第二言語)使用時」にかぎった話ではないし、2)むしろ、英語を頻繁に使う「状況」で(「状況」に応じて)発現する「自己」、「人格」を、(「英語(第二言語)を使う」というのがやや特別な状態だから)「英語人格」として認識してしまいがち(なだけ)である、と解釈することもできるのではないかとおもいます。


現在の私の場合、英語を使う「状況」と、日本語(第一言語)を使う「状況」というのは、かなりはっきりとわかれています。学校、研究関係はほぼすべて英語、自宅、家族とする会話(ニシちゃんと話すのも含む)は日本語。英語を話す「状況」での私は、全体的に口数はすくないけれど、話すことさえあれば、初対面の人ともあるていど会話が続けられるし、渡りあうこともできます。日本語を話す「状況」での私は、親しい人の前ではおしゃべりだけど、初対面の人は非常に苦手で、会話をつづけることができません。


はたからみれば、(あるいは、はたからでなくても、「英語人格」説にしたがって解釈するならば、)私には、ほんの多少の違いしかないけれども、「英語人格」がある、ということになるかもしれません。けれども、同時に、私の「人格」の変化は「状況」の産物であると解釈することもできる。私が英語を話す「状況」で会う初対面の人、というのは、だいたい大学関係(教授、職員、ほかの大学院生や研究者)です。そういう人と会話を続けることができる、渡りあうことができる、というのは、どちらかといえば、英語を使っているからではなく、(おおざっぱな意味での)学校という「状況」において発現する私の「人格」がそういう特徴を持っているから、ともいえるとおもうのです。逆に、私の「日本語人格」が「英語人格」よりも人みしりであるのは、日本語を使う「状況」での初対面の人との出会いが、学校という「状況」の外でおこることが多いから。


これは、別に「英語人格」説への反論というわけではなくて、(社会構築論的な、生物学的決定論に対する反論、という意味では反論なのかもしれないですが、)私の経験していることを解釈すると、私にはこちらのほうがしっくりとくる、というだけに過ぎません。もしかすると、私の経験が特殊なのかもしれないし、私がある種の教育を受けているから、社会構築論的な解釈がより適切だと感じられるだけなのかもしれません。ただ、「英語人格」だけではなくて、こちらの象徴的相互作用論的な解釈でもあてはまるケースというのは、ほかにもあるんじゃないかなあ、ともおもいます。あと、こちらの解釈でいうと、「能動的な英語人格の獲得」というのは、「映画のヒーローの真似をしていればヒーローっぽくなる」というほど単純ではない、ということにはなりますね。


あと、どうでもいいけど、「象徴的相互作用論」て、日本語で言おうとすると舌を噛みそうになる。早口言葉にしたらいいとおもう。



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