図書館にて

日本へ発つ数日まえのこと。


大学の図書館の地下階と1階をむすんでいる内階段の、せまい踊り場。私はそこで、首をすくめてちぢこまっていた。時刻は夕方6時にあと数分。図書館の閉館時間が刻一刻と迫っていて、手もとにはまだ貸し出し手続きの済んでいない本があるのに、その場から動くことができなかった。


内階段は、地下フロアのほぼ中央を起点とし、途中で一度だけ折り返して、1階まで続いている。それぞれの段(と、踊り場部分の床)は薄い金属の板で、それらをつなぎあわせている骨格も金属。手摺も細い角柱状に加工された鉄で、上り下りしている途中にも、各部品のあいまから、フロアの様子をうかがうことができる。私が、やや離れたところにある壁の近くに見慣れた人影をみとめたのも、地階にある書庫で本をみつけて、地上にむかって階段を上っていたときのことだった。


長い金色の髪。季節がやや暖かくなったのに、まだ着ている緑色の冬用の外套。ルームメイトだ。


「エリ――」


呼びかけようとした私の声は、猛烈な犬の鳴き声にさえぎられた。つづいて、打ちっぱなしのコンクリートの上を駆けていく、爪の響き。見ると、壁際の回廊、ルームメイトの華奢な後ろ姿にむけて、引き締まった体つきの黒犬が二匹、強弓から放たれた矢のような勢いで突進していくところなのだ。番犬。この施設は、いまだにその時代錯誤な防犯システムを採用している。ここでアルバイトをしている彼女は、以前にも、その一匹に手をひどく噛まれたことがあると言っていた。


私はとっさに、階段を走り下り、彼女のところに駆けつけようとした。そのために、彼女と、彼女に飛びかかっていく犬たちから目をはなした瞬間。


声が轟いた。それは、どこから発せられたのかが特定できるたぐいのものではなく、フロア全体を突然満たしたのだ。地の底からわき出てきたかのような、低さ、深さをともなっていたので、もしかすると建物全体に響きわたっていたのかもしれない。人間の口から発音されたものとは、とても思えなかった。いかなる人間の言語にも属さない音ですらあるように感じられた。


あれだけ激しかった吠え声が、途切れた。沈黙。けれども、その静けさは、一秒とたたないうちに、犬たちの断末魔の悲鳴にとってかわられた。階段に足をかけたままの状態で、恐る恐る振り返った私の目に入ったのは、こちら向きに立っている、ルームメイト。右手に本を広げて持っており、左手はその中の一節をたどろうとするときのように、添えられている。そして、その足もとに落ちている、もとは二匹の番犬であった、肉塊。私の膝から力が抜けた。かろうじて、這うようにして踊り場までの数段を上り、そこの手摺の基部の鉄板に背中をつけて、身体をちぢめた。


ばたん、と頭上のあたりで音がして、顔を上げると、階段の1階がわの端にある扉を開けて、制服姿の人影がふたつ、こちらにやってくるところだった。その中のひとりが言おうとした。


「何の音ーー」


けれども、彼はその言葉をいい終えることができなかった。あの、忌まわしい声が、ふたたび地下階中に轟いたのだ。そして私の眼前に......。


ーーー

気がつくと私は、自室のベッドの上にいた。外出したときの服装で、眼鏡さえかけたままだった。つけっぱなしの腕時計を見ると、時刻は夜の8時をまわったところだ。いつのまに寝てしまっていたのだろう。立ち上がると、すこし頭がくらくらした。何か、悪い夢をみていたような気がする。


悪い、夢。ふとデスクの上に目をやると、本が1冊置いてある。取り上げて、表紙を確認する。今日、図書館から借りてくるつもりだったタイトル。その右上のほうに、赤黒い染みがついている。そこに手を走らせると、べとりとした何かが、私の指にからみついた。本には、返却期限を記した、細長い黄色の紙がはさまれている。8月21日。見慣れた筆跡は、私のルームメイトのものだ。


ふらふらと、廊下に出て行く。ルームメイトの部屋のドアは閉ざされていたが、彼女が中にいることは、下から漏れてくる光でわかる。扉をノックしようとした。けれども、できなかった。


その日から、アーカムを経った日まで、彼女とは一度も顔をあわせなかった。一日の予定がすれ違うことが多いから、それ自体はよくあることだ。けれども、私が町に帰るころ、彼女はその部屋を引き払っているだろう。そういう話に決めてあったのだ。彼女はいちど故郷に帰り、そこから1年間の現地調査に赴く。私が次に彼女に会うのは、彼女が調査を終えて、戻ってきたときになるだろう。戻ってきたとして、の話だが。


階段の踊り場に身を隠す前の一瞬、私は彼女の顔を見た。その瞳に宿っていた暗い炎を、私はまだおぼえている。


関連: 図書館図書館と番犬中国語