『ミスカトニック大学留学日記』(下)
2008年11月15日
午後の1時過ぎ。
私はアーカムの中心街にあるインディペンデンス・スクエアから道路を一本へだてたところの建物の、せまい軒下に身をよせて、バスを待っていた。
朝から、小止みになったり、大降りになったりをくりかえしながら降りつづいている雨で、目のまえの歩道には水溜まりができている。そこにときおり、ちいさなさざ波が立つ。風も強くなってきているのだ。
ジャケットの前のジッパーをいちばん上まで閉めながら、もうすこし厚着をしてくればよかった、と私はおもっていた。
これから赴くインスマスは、海に面した町だ。このような天気の日には、アーカムよりもずいぶんと寒くなるにちがいない。
1時15分発、と鉄道駅の構内の案内所でみつけた時刻表に書かれていたインスマス行のバスは、5分ほど遅れてやってきた。30年以上昔に建造されたとおぼしきその車体には、白っぽい塗料を何度も塗り重ねたような跡があるだけで、バス会社の名前や行き先は表示されていない。歩道のがわにも標識などがあるわけではなく、そうと知らなければどこへ行くのかすらもわからないようなのに、バスが横付けされると、どこからともなく集まってきた男女が数人、乗りこんでいく。
私もリュックサックを背負いなおし、それにつづいて乗車した。
運転手は、頭髪の薄い男性だった。顔の左右方向にやや離れた具合になっている目と、低い鼻、ちいさな耳の持ち主で、つるりとした肌からは、いまいち年齢を読みとることができない。
「インスマスまで、ひとり。往復で」
そう告げて、20ドル札を渡すと、ひと言も発せずに、私の手に古ぼけたトークンと、10ドル札を1枚と1ドル札を4枚を載せてよこした。
座席には先客が5人いて、それぞればらばらに座っており、私が自分の席を決めるために通路を抜けていくと、町の住民でない人間が乗車してくるのは、めずらしいことなのだろう、遠慮のない視線を私に向けてくる。
彼らの (女性もひとりいたが) 外見にも、バスの運転手の顔の特徴と同じ傾向がはっきりとあらわれていた。
細長く、毛髪のすくない頭。平たい鼻。奇妙に離れた、ぎょろりとした目。
「インスマスの外見」と呼ばれている特徴だ。
私が後方に近い席に腰をおろすとすぐに、やかましい作動音とともに自動扉が閉まり、バスは発車した。
外装の様子から予想したとおり、運転手がアクセルを踏みこむと、エンジンの振動が直接座席にまで響いてくるようなおんぼろの車体だったけれども、慣れというのは不思議なもので、しばらくするとそれもほとんど気にならなくなった。ほかの乗客も、このようなことはあたりまえ、とばかりに、皆、しずかに前を向いて座っている。
バスはアーカムの市街地を抜けると、州道を北上する。
州道とはいっても、片側1車線の、ところどころ舗装がはがれかけた悪路で、沿道にも、ただ冬枯れの茂みがつづいているだけだ。
そこをバスは、がたがた音をたてながらひた走る。対向車とすれちがうこともほとんどない。
30分ほど経つと、道の先に、色のあせかけた大きな看板があらわれた。州道のインターチェンジとインスマスの町の間にあるアウトレットモールの看板で、そのさらにむこうには、インスマスの中心街近くに建つ教会の尖塔が、曇天を背にそびえている。
Innsmouth と標識のあるインターチェンジで州道を降りたバスは、モールの横を通りすぎ、インスマスの町の中へと入っていく。そして、空き家の目立つ住宅街を数ブロック抜け、「合衆国通り」と名のついた、やや広めの道に出る。これが、インスマスのメインストリートだ。
バスは海を左手に通りを進み、「新教会広場」と呼ばれる交差点を通過する。中央に円形の、ささやかな芝生の公園のようなものがある交差点で、さきほど州道から見えていた尖塔のある教会は、ここを囲むように建っている。
そこをすぎて、またしばらく走り、町の中を流れるマヌセット川にかかる橋を渡ってすぐのところにある半円形の広場で、バスは停まった。
タウン・スクエアという名のこの広場の周縁には、食料品店、薬局、ホテル、レストランが集まっており、とりあえずの中心街といった体裁をなしてはいるのだが、実際に営業しているのも本当にその4軒 (と、消防署) だけで、それ以外の建物はすべて空き店舗になっている。
ほかの乗客は、バスの扉が開くとすぐに降車して、町に帰る場所があるのだろう、それぞれに散っていった。
私は運転手の急かすような視線を感じながら、あわてて上着を着込み、荷物を背負って外に出た。
外は、霧のような雨が降っていた。風も、アーカムでより、いくぶんか強く吹いているように感じられる。
バスが轟音をたてて走り去ってしまうと、濡れた石畳の広場にいるのは、私だけになった。
私はジャケットの襟を立て、首をすくめるようにしながら道路を渡り、ホテルの前まで行った。
ドア・パーソンなどいるわけもなく、上半分にガラスのはまった、重い木製の扉を自分で押し開けて建物に入る。
ホテルのロビーは薄暗く、外とあまり気温も変わらないようだった。奥の、おもての光がとどかず、さらに一段と暗くなっているあたりに低いレセプション・カウンターがあって、中には男がひとり、椅子に腰かけている。
近づいていくと、男は大儀そうに立ち上がり、私のほうに顔をむけた。
彼も、この町の名前を冠して呼ばれ、忌み嫌われている外見の持ち主であった。
ホテルのレセプションで名前と電話で予約をしたことを伝えると、カウンター内の男は、チェックインの書類のほかにもう一枚、ペンで数文が殴り書きされているしわだらけのメモ用紙を突き出してきた。
男が一切の説明をしてくれなかったので、はじめ、それが何であるのかわからなかったのだが、読んでみると、どうやら私への伝言であるらしい。
「申し訳ないが、やむにやまれぬ事情で、今日はそちらに到着できないことになった。明日の午前中には着くことができるとおもうので、ホテルで待っていてほしい」
末尾には、私が今日、ここで待ち合わせをして会う約束をしていた人物の名前が、(まちがった綴りで) 記されていた。
ベンジャミン・ベスネル。(Bethnellというのが彼のラストネームの正しいスペルだが、メモ書きではBethenelとなっていた。) かつてアーカムにあるミスカトニック大学で教鞭をとっていて、現在は退官している氏から手紙がとどいたのは、先週のことだった。
タイプライターで整然と打たれた書状の中身は、次のようなものだった。
「先日、私の名を騙ったおかしな手紙が、あなたの許にも送られてしまったかもしれないが、それは私とはまったく関係のないものだ。何者かが悪質ないたずらをしかけようとでもしたのだろう。そのようなことをして、何の利益があるともおもえないのだが。それによって、あなたに迷惑がかかってしまったようであったら、謝罪したい。
ところで、来週の土曜日、私はインスマスを訪問することになっている。私が長年研究していた、とある宗教組織の祭礼が日曜日におこなわれるので、久しぶりに訪れてみようとおもうのだ。インスマスとアーカムは距離も近く、交通もそれほど不便ではない。もし、あなたのその日の予定がまだ埋まっていないのであれば、いままで計画だけにとどまっていた、あなたとの面会を果たすよい機会になるのではないだろうか。さらには、私が訪れるつもりでいる祭礼は、私の考えによれば、あなたが研究しようとしていることとも関係があるように見受けられる。もしかすると、あなたにとっても興味深いかもしれない」
この文面を理解するためには、すこし説明が必要かもしれない。
まず、氏が冒頭で触れている、「おかしな手紙」は、数週間前に私のところにとどいたものだ。その手紙は氏が差出人になってはいたが、非常に乱雑な筆跡で書かれており、たしかに内容も不可解なものだった。
差出人が (つまり、氏が)、「魚人ども」に監禁されそうになり、その手から逃れるためにアーカムへ行く。だから、鉄道駅までむかえにきてほしい。そのような主旨だったのだ。
私は、半信半疑ながらも、念のため、指定されていた日時に駅に行った。けれども、氏はあらわれなかった。
そのことについて、私は氏に問い合わせることはしなかったが、上で引用した手紙の文章からすると、氏のほかの友人か知人にも似たような書状が送られていたのだろう。そのうちのだれかが、氏に真偽をたしかめ、それで、この事件が氏の知るところとなったのだとおもう。
(もっとも、氏と私の間の手紙のやりとりには、なぜか不運な郵便事故がつきまとっていた。いちどは、私が間違いなく封入したはずの写真が途中でなくなり、またもういちどは、氏が私に宛てて送ったはずの、氏の研究をまとめた文章が行方不明になってしまった。)
後半で氏が書いている、私の「研究」というのは、私が在籍しているミスカトニック大学の人類学部博士課程で、博士論文研究として進めようとしている調査のことを指している。
この調査は、日本の奄美諸島にある楼家島 (るいえしま) という小島に残る、伝統的な宗教習慣、宗教行事に関わるもので、そもそも、私が氏と手紙を交換するようになったのは、今年の夏、楼家島に事前研究に行ったあと、そのときに撮影した写真を氏に送り、見解を訊ねてみてはどうか、と、私の指導教官が薦めてくれたことに端を発していた。
(ちなみに、私は鹿児島市内の出身だが、父方の家系は曾々祖父の代までこの楼家島に住んでいた。)
なんどか通信を重ねているうちに、いちど直接会って研究の話を、ということにはなったものの、氏が現在は遠隔の地に住んでいることと、私の仕事や授業の予定がなかなか空かなかったために、実現には至っていなかったのだ。
また、氏には持病もあるらしく、そのために私が遠慮したというのも理由のひとつだった。はじめのころ、氏からくる手紙は非常に流麗な筆記体と、見事な修辞法でしたためられていたのだが、2ヶ月ほど前に発作にみまわれてからは、タイプライターで書かれた、やや断片的な文章が多くなっていた。
ともかく、氏のその提案をうけいれて、私は今日、インスマスまでやってきたのだった。
(もともとは自分の車で来る予定だったのが、その車を修理に出さなくてはならなくなったため、出発直前でバスに変更した、という小事件もあったのだが、それは余談になるのでここでは触れないでおく。)
氏が今日中には来られない、ということになったので、私は急に手持ちぶさたになってしまった。
チェックインの手続きを済ませると、レセプション・カウンターの無口な男は、鍵のうしろに客室番号の記された楕円形の板がぶらさがっている古風なルームキーを渡してくれた。
とりあえず部屋に入ることにして、ロビーの片隅から、がたがたがた、と不安にさせる音を立てつづけるエレベーターに乗って2階に上がる。
私にあてがわれたのは、廊下のいちばんつきあたりにある、建物の裏庭に面している部屋だった。
中は8畳くらいのメインの部分とバスルーム、というつくりで、建物が古いからでもあるのだろう、アメリカのホテルとしては広くない。壁の一面に背の高い上下開きの窓が2つあって、そこからは、せまい裏庭を見下ろすことができた。窓のそばに、ひとりがけのソファーがひとつ。その近くの壁ぎわに、書きもの机と、巨大なキャビネットにおさめられた古くさいテレビ。そして、テレビの正面に、ひとり用のサイズのベッドが置かれている。
室内はひんやりとしていて、やや湿っぽくも感じたけれど、ベッドのリネンや、バスルームに用意されていたタオル類は清潔で、シャワーや洗面台の具合も、心配したほど悪くはなかった。
外はあいかわらず雨で、風も強くなってきているようだ。町を歩きまわるにはむかない天気だったし、たとえ天気がよかったとしても、この町にわざわざ見てまわるほどのものはあまりない。
私は部屋にとどまることに決めて、今日会うはずだった元教授に渡すつもりで作成してきた資料や写真に目を通しなおしたり、時間つぶし用に持ってきた本を読んだりしていたが、気分が乗らず、どちらにもすぐにあきてしまった。
しばらくベッドに腰かけてぼんやりとしてから、時計を見る。それでも、時刻はまだ5時前だった。
すこし早かったけれども、夕食をとりにいくことにして、ホテルを出る。それくらいしか、できることが考えつかなかったのだ。
といっても、インスマスの中心街には、味はほとんど期待のできない食堂が1軒あるきりで、その食堂はホテルから道を渡ってすぐのところにあったから、これで時間がつぶせるともおもえなかった。
ドアを押して中に入ると、案の定、食堂には先客がひとりもおらず、主人とおぼしき中年男は、キャッシュレジスター台の奥で椅子に座り、新聞を読んでいた。
この男にも、よそ者の姿はめずらしいのか、彼は私が席に着き、メニューを見て、注文をする間じゅうずっと、こちらを観察しているようだった。
そして、私がオーダーしたチーズバーガーとスープとコーヒーを運んできたあと、好奇心がおさえきれなくなったようで、(あるいは、ただ話し相手がほしかっただけなのかもしれないが、) 私に話しかけてきた。
「お嬢さんも、この町の生まれなのかね」
私は首を横に振って、否定する。
「そうかね。なんか、この町の人みたいな顔してるけど、でも、中国人みたいにも見えるから、どうかとおもってね」
男はさも納得したかのように、うなずきながらそう言った。その言葉に悪意がふくまれているわけではなさそうだったので、私は反論しないことにして、中途半端な笑顔をかえした。
細長く、毛髪のすくない頭。平たい鼻。顔の左右方向に奇妙に離れてついた目。
このあたりの地方で、「インスマスの外見」と呼ばれている独特の容貌は、実は私の祖先の地である楼家島の島民の顔によく見られる特徴とも酷似している。
そして、結婚を機に楼家島に (正確にいえば、島に、というよりは海に) 帰ることを決めた私の兄や、(兄ほど顕著にではないけれども) 私も、その外見をうけついでいる。
奄美諸島に浮かぶ小島と、ニューイングランドの片隅にあるこの港町とのあいだに、なんらかの血縁的な関係があるとはとてもおもえないのだけれども。
「今週末は、なんか大事なお祭りがあるみたいでね。よその町に住んでる人もずいぶん戻ってきてるようだしね」
食堂の主人は、そう続けた。
そうなんですか。私が返事をしようとしたとき、入口のドアが重い音をたてて開き、店主はそちらへ行ってしまった。
新しい客は、警察官の制服を着た若い男で、ぎょろりとした丸い目で私のほうを一瞥してきた。この男も「インスマスの外見」の持ち主だった。
店のすぐ外にパトロール・カーが停まっているところからすると、巡回の途中なのだろう。なじみの客でもあるらしく、主人とすこし会話をかわしながら、キャッシュレジスター台のところで売っているドーナツと、持ち帰り用のコーヒーをもとめると、すぐに出ていった。
若い警察官が出ていくと、食堂の主人はキッチンに引っ込み、私はひとりで食事を続けることになった。
すこし水っぽく感じられるトマト味のスープを飲みほして体をあたため、焼きすぎて硬くなったパティと、しなびかけたレタスが、ふにゃふにゃのパンにはさまっているだけのチーズバーガーをたいらげる。
食べ終えて、にごったお湯とほとんど変わらないコーヒーをすすっていると、ふたたびドアが開いた。
今度の客は、アーカムで一度会ったことのある日本人女性だった。
彼女は、店内に私がいることに気づくと、びっくりしたようだったが、すぐに笑顔になり、手を振りながら私のほうにやってきて、向かいがわの椅子についた。
あなたが来ているとは聞いていなかった、とおどろく彼女に私は謝り、それから、元教授からの手紙のことを話した。その手紙にあった、氏が長年研究している宗教団体と、その行事というのは、あるいは彼女が語ってくれたものと同一のものなのかもしれない。ただ、それを確認する時間はなかったうえ、変なふうに複数のルートからコンタクトをとってしまうと、混乱するに違いない。そう考えたので、彼女や教団に連絡することは控えたのだった。
それなら、もしかすると、明日も会えるかもしれませんね。彼女は言った。
会うのは2週間ぶりくらいだったので、私たちはお互いの近況を報告しあった。
彼女の食事が終わるのを待って、それからもうすこし話し、食堂を出るころには、9時過ぎになっていた。
食堂の主人の興味深そうな視線に見送られ、ホテルに戻る。
彼女が泊まっているのは、私と同じフロアの、エレベーターの真正面の部屋だった。
明日の朝は早い、という彼女と、もし明日会えなくても、アーカムでまた会いましょう、と約束をして別れ、私は廊下のつきあたりにある自室に帰った。
ホテルの自室に戻ると、本格的にやることがなくなってしまった。
9時を過ぎているから、夜もまだ若い、とは言えないかもしれないけれども、寝てしまうにはまだ早い。暇になったときのために、短編小説集も持ってきてはいたのだが、なぜか今日は、それを読む気にはならなかった。
とりあえず、ゆっくりとシャワーを浴びて、寝じたくをした。
それでも、時間は1時間弱しか経っていなかった。
自宅ではあまり観ないテレビをつけてみたりもしたけれど、ケーブルテレビと契約を結んでいないのか、3チャンネルほどしか入らないので、すぐに消す。
結局私は、何かすることをあきらめて、部屋の灯りを落とし、ベッドに潜りこんだ。
時刻は10時半くらいだった。
ベッドに入ってしまえば眠ることができるかともおもったのだが、深夜12時過ぎまで起きているのが習慣になっているからか、眠気はちっともやってこなかった。
暗闇の中で何度も寝がえりを打っているうちに、おそらく1時間ほどは経っていたのだろう。
廊下のほうから足音が聞こえてきたのは、そのときだった。
ときどき床がきしむ音に加えて、間隔のやや長い、べたり、べたり、という音がする。
それは、私の部屋の方向に近づいてきて、そして、止まった。
直後に、低い声。なにかを訊ねたらしく、もうひとつの声が、それに答える。
「電気が消えてから、もう1時間は経ってます。もう寝たでしょう」
ささやくような声だったけれども、どうやらドアのすぐ向こうで発せられたらしく、はっきりとそう聞きとることができた。
「よし、そろそろいいだろう」
はじめの声が言う。
「待て」
第三の声が、やや遠いところから割って入る。
「203号室の灯りがまだついている。音を聞かれるとまずい」
「ほかの部屋のことなど、気にしないだろう」
と、はじめの声。
「いや、この部屋の客と会っていたようだったからな。赤の他人じゃなければ、様子を見にくるぐらいのことはするかもしれない」
と、第三の声。どうやら、この声の主は、ホテルのレセプションにいた男らしい。
「そうならないようにしろと言ったじゃないか」
はじめの声の音量が、すこし大きくなる。レセプションの男が、ちいさな声で反論する。
「……教団内部の知り合い……いるとは聞いていない……外で勝手に会って……俺の知ったことじゃない」
「……教授からの手紙を装ってタイプ……疑われる前にうまくおびきよせた……」
「そもそも、こんな手荒な真似をする必要があるのか。……が帰るまで待てばいいだけの話……」
「……いつになるかわからない。流れている血は……薄い……帰るのかどうかもわからない。この機会を……」
「まだ、失敗したと決まったわけではありません。もう12時に近い。そっちの部屋はそろそろ寝るでしょう」
ドアの近くの声がそう言い、そのあと、ささやき声でいくつかやりとりがあったあと、足音は遠ざかっていった。
私は布団の中で、自分の腕で自分の体をきつく抱いた。動悸がはげしくなって、両足がぶるぶる震えているのが、寝た姿勢のままでもわかった。
廊下の声が議論していたのは、この部屋のことだ。私のことだ。
203号室の客――というのは、夕食時に会ったあの女性だろう――が寝たら、侵入してくるに違いない。
そのあと、なにをされるのか。
ベスネル氏から届いた、「おかしな手紙」の内容が頭をよぎる。
「魚人どもが、私を地下室に監禁した」
どうしたらいいのかわからない。
けれども、あまり思案している時間はなさそうだった。
私は意を決して、ベッドの上に体を起こした。
サイドテーブルを手探りして、眼鏡をみつけ出す。
部屋の中を見まわしてみる。ドアには鍵はかかっているけれど、チェーンやボルトロックは元からついていなかった。マスターキーさえあれば、簡単に入ってこられるようになっている。
こういうときには、ドアのこちら側になにかを置いて、開かないようにするのが定番なのかもしれないが、室内には、私の力で簡単に動かせそうなものはない。
さきほど聞こえてきた声は3人のもので、離れていった足音はふたりぶんしかなかったようにおもう。おそらく、ひとりが残って、見張りを続けている。物音を立てたら気取られてしまう。
警察に通報しようか、とも考えたが、すぐに打ち消した。レストランに入ってきた警察官の、「インスマスの外見」をした顔が思い浮かんだからだ。もしかすると警察も、襲撃者の一味かもしれない。
逃げよう。
逃げるとしたら、脱出口として使えるのは、窓しかなさそうだった。
私はなるべく音がしないように、そろそろとベッドから下りた。
忍び足で床を歩き、靴を履いて、寝間着がわりに着ているトレーナーの上からジャケットを羽織る。それから、書き物机と付属の椅子の上に散らばっている写真と資料と着替えのたぐいを、手当たりしだいにリュックサックに突っ込みはじめた。
途中で、どこかから、ぱたり、という音がして、私は固まった。
気づかれたかもしれない。
けれども、しばらく動きを止めて様子をうかがってみても、廊下のほうからはなにも聞こえてこない。
私は、溜めていた息を吐き、残っていた下着と靴下を鞄に詰めて、ジッパーをゆっくり閉めた。
リュックサックを背負って、ふたつある窓のうちの、ひとつの前に立つ。
カーテンをかきわけて、外を見る。
部屋が面しているホテルの裏庭は、常夜灯のオレンジ色の光で満たされていた。
雨は今は降っていないようだ。
窓のすぐ下あたりの、壁沿いに目を走らせる。
地面まで、ずっとまっすぐになっていて、特に足がかりになりそうな突起などはないようだった。
どうやら飛び降りるしかなさそうだ。
ここは2階なので、直接窓からではなく、いちど下側の窓枠にぶらさがってから降りれば、それほどの高さを落ちることにはならないようにおもえたし、それよりもよい脱出方法はもう考えつかない。
私はロックをはずし、窓を押し上げた。
木製の枠はたてつけが悪くなっていて、半分くらいまで開きかけたところで引っかかってしまう。通り抜けるにはまだ狭かったので、もうすこし、とおもって力を加えると、開くには開いたものの、がたがたがた、と、ものすごい音がした。
廊下のほうで、人が動く気配がした。ドアの鍵を解錠しようとしているらしい、がちゃがちゃという金属音も聞こえる。
いそいで窓枠をまたぎ、外に体をすべらせる。
段階をおいて降りるために、枠の、壁からすこし飛び出した部分をつかもうとして、つかみそこね、私はそのまま、落下した。
気がつくと、私は裏庭の芝生の上に、あおむけに倒れていた。
部屋から脱出するのに使った窓のあたりに目をむけると、カーテンの上を懐中電灯の光らしきものが這いまわっているのが透けて見える。
地面に落ちたときの衝撃ですこし意識が飛んでいたものの、ほとんど時間は経っていないようだ。
その場から動こうとすると、背中側の右足のつけ根あたりに激痛が走った。それをこらえながら立ち上がり、そろそろと歩いてみる。やはり痛みは感じたけれども、骨が折れているわけではないようだった。
ならば、がまんすれば大丈夫、と自分に言い聞かせ、奥の塀ぎわに見えている木戸をめざして、裏庭を横切った。
木戸を開ける。その先はごみ捨て場だった。
ふたつならんだ鉄製の大きなごみ箱の間を抜けていくと、細い路地にぶつかった。
ホテルの表口が面しているタウン・スクエアの、ひとつ外側を通っている裏路地であるらしいが、どちらの方向に行けばいいのかがわからない。
けれども、ホテルの方角から叫ぶような声が聞こえてきたので、この場から動くのが先決だと考えて、左手側に伸びている道を選んで足を踏み出した。
結果からいうと、この選択は誤りだった。
左にゆるくカーブを描いている、石壁にはさまれた見通しのきかない路地を進んでいくと、明るく照らされた、幅広い通りが前方に見えてきた。
その道と私がいる路地との交差点あたりが、ざわざわと騒がしい。
壁際の暗がりに身をよせつつ、状況をうかがう。
私からみて右ななめ前にあたる角に立っている街灯の下に、人影がいくつか集まって、頭を突きあわせている。
その人影のうちいくつかは、「インスマスの外見」の持ち主だった。
そして、残りの数人は……。
悲鳴が漏れそうになるのを両手で自分の口に蓋をしておさえながら、私は路地の奥へと後ずさりした。
街灯が投げかける光の輪の中に、その姿ははっきりと浮かびあがっていた。
集団の、残りの数人。
彼らは二足歩行はしているものの、異様なくらいのがに股で、てらてらと輝いている禿げ上がった頭部には、鰭や鰓をおもわせる部位が付随しているのだった。加えて、顔の両側に飛び出した、まばたきをしない目と、色のない、ぶ厚い上下の唇。さらには、腐った魚介類のような、胸の悪くなる臭いが、私のいるところまで漂ってくるような気がした。
私は一歩、二歩と足を引いた。
それから踵を返し、来た道を逆にたどる。
ホテルの裏木戸のところまで半分ほど戻ったあたりで、前のほうから足音がきこえてきて、私はあわてて、近くにあった横道に入り、その奥のほうに身を隠した。
追っ手に見つからずには済んだけれども、これで、私の方向感覚は完全に混乱してしまった。
そのあと、ときおり前や後ろから響いてくる足音におびえながら裏通りを歩きまわり、町の中での自分の位置がわかる場所に戻って来られたのは1時間ほど経ってからのことだった。
それほど幅のない橋のたもとに、私は立っていた。
右手の方角の、すこし離れた場所に、もう一本、やや大きめの橋がマヌセット川をまたいでかかっており、これが、昼間バスで通ってきた「合衆国通り」が渡っている橋であるらしい。
その先で、川は湾にそそいでいる。
湾のむこうには、デビルリーフと呼ばれる岩礁が黒々とそびえたっているはずだったが、曇りがちな夜空のもと、そのあたりは闇におおわれていて、なにも認めることができない。
と、そのとき。
空全体が輝いて、一瞬のちに、耳をつんざくような雷鳴が轟いた。
驚いている間もなく、続けてもう一度、空が光る。
白っぽい光におおわれた海上が目に入ったとき、私は言葉を失った。
影になって見えているのは、デビルリーフ。そのふもとから、インスマスの町側の岸壁まで、水面をびっしりと埋めるように、黒い点が浮いている。
次に雷光が夜空に輝いたとき、それらの正体がはっきりとした。
魚人どもの頭なのだ。そして、彼らは、こちらの岸にむかって、押し寄せてこようとしている。
何回めかの雷の音とともに、大粒の雨が落ちてきた。
私は姿を見られないように、姿勢を低くたもちながら、橋を一気に駆けぬけた。
向こう岸までは100メートルもないくらいだったが、渡りきるころには足がもつれ、息がつまりそうになる。
日ごろの運動不足を呪いながら、私は欄干の終端にあった飾り柱の元にへたりこんだ。
10分ほどもすると、さすがに呼吸も落ちついてきた。
私はふたたび立ち上がり、川沿いの道路を横断して、住宅街に足を踏み入れた。
灯りのすくない道を数ブロックまっすぐ進み、それから進路を西にとる。
やがて建物がまばらになって、道は、州道とのインターチェンジにつながっている自動車道と交わった。
雨がだんだんひどくなってくる。
私は、右足をひきずりながら、車は一台も通らない自動車道路の路肩を歩きつづけた。
インスマスの町から、インターチェンジまで、車ならば15分もかからない距離のはずだが、1時間以上は歩いただろう。
体はすっかり濡れ、冷えきってしまっていた。
道路がすこし登り坂になっているところを越えると、降りしきる雨の幕のむこうにぼんやりと、ガソリンスタンドの緑色の看板が見えてきた。
併設されているコンビニエンスストアの店内の灯りが白くこぼれているのもわかる。
私は、ときどき膝の力が抜けてしまいそうになるのをこらえながら、その光をめざして進んでいった。
ガソリンスタンドの前に立つ。
蛍光灯の青白い光をこれほど暖かく感じたのは、はじめてのことだった。
ガラス扉を、全体重をかけるようにして、なんとか押し開ける。
店内に入った瞬間、これまで緩めないようにがんばっていた緊張の糸が一気に切れ、私は床に崩れおちてしまった。
カウンターのむこうにひとりだけいた店番の男が、私のほうに近づいてくる。
「魚人の群れに追われているんです。助けて」
私は、力のない声で、男に訴える。
「その魚人というのは」
男は答えながら、かぶっていたフードをうしろにずらす。
「こんな顔をした奴らかね」
自分があげた叫び声で、目が覚めた。
長い距離を走ってきたあとのように、呼吸が荒くなっている。
汗をびっしょりとかいていて、体を起こすと頭がすこしくらくらした。
私は、アパートの自分の部屋の、自分のベッドの上にいるのだった。
「よかった……」
私は大きく息をついて、掛布団をかきあわせ、もういちど横になった。
乾いたシーツの肌触りが心地よい。
インスマスから逃げ出したあと、実際に駆け込んだガソリンスタンド兼コンビニエンスストアの店員は、よくいえば寛容な、悪くいえば危機感のない、老年にさしかかった男だった。
どうやら以前にもそういうことがあったらしく、詳しい事情を聞かないまま (私も、説明できるような状態ではなかったけれども)、私のことをボーイフレンドと喧嘩をして道中で放り出されたものと決めつけ、店の電話を使わせてくれ、それから、連絡をとったルームメイトのニシちゃんが到着するまで、暖房の前の椅子をすすめてくれた。
ニシちゃんを待つ間にも、いろいろと話しかけてきてくれたのだが、私は、いつこの店のドアが開いて、魚の顔を持った一団がなだれこんでくるか、それが気がかりで、うわの空の返事しかできなかった。
「カウンターの裏にショットガンが隠してあるからよ、もし男が追っかけてきたら、それで追い返してやるから」
店番の男はそう言って笑っていたが、店に入ってくるのが魚人の群れだったとしても、同じ対応をしてくれるのだろうか。
あるいは、もしかすると、ニシちゃんの車が、私を追ってきている者たちによって襲撃されているかもしれない。助けは永遠に来ないのかも……。
その不安は杞憂に終わったのだけれども、彼女の車がコンビニエンスストアの前の駐車スペースにすべりこんでくるまでの30分足らずが、とてもとても長い時間に感じられた。
アーカムに帰る道のりの間、私はずっと、運転しているニシちゃんの横で、助手席にちいさく丸まっていた。体の震えと、涙が止まらなかった。
アーカムの自宅にもどってきたのは、日曜日の早朝だった。
それから私は、しばらく寝込むことになった。
体温計で計ってみても熱はないようなのだが、悪寒と目眩と吐き気に悩まされつづけ、数日は食事も喉を通らなかった。
夜中にずぶ濡れになって歩きまわったせいで風邪をひいてしまったのか、それとも、ほかの原因があったのか、それはわからない。
眠りに落ちると、かならず夢を見た。
夢の中でいつも、私は魚の頭を持った異形の者の集団に追われていた。
逃げようと、石畳の道を走っていくと、いつのまにか、沼のようなところに踏み入れてしまっている。
黒い、どろどろとした、悪臭を放つ物体に足をからみとられ、動きがとれなくなる。
もがけばもがくほど、体はずぶずぶと沈みこんでいく。
そんな私のまわりに、四方から魚人たちが迫ってくる。
異形の者の群れを率いているのは、ときに、水掻きのある手と鱗におおわれた頭を持った巨大な生物であり、ときに、人間の女性だった。あの、先週の土曜日の夜に会った、「インスマスの外見」をした日本人の女性なのだ。
夢はまれに、逃げ場のなくなった私のもとに、どこからともなくニシちゃんがあらわれて、『マトリックス』の主人公ばりのアクションで魚人の集団を蹴散らしてくれる、という展開になることもあったけれど、たいていの場合、私はひとりきりで、追いつめられてしまう。
そして、魚人の顔が目の前に迫り、もうだめだ、とおもったそのとき、夢から覚めるのだ。
その週が終わるころになって、私はすこしずつ回復してきた。
けれども、まだ本調子にはほど遠く、そのあとも1週間、寝たり起きたりをくりかえした。
楽しみにしていた感謝祭の休暇も、ボストンへの買い出しも、すべて棒にふることになってしまった。
魚人に追われる悪夢も、あいかわらず夜ごとに襲ってくるのだった。
感謝祭休暇が終わる日曜日。
昼過ぎ、ニシちゃんが買い物に出かけたのをみはからって、私は布団から抜け出した。
夏に楼家島に事前調査に行った際にとった記録、そのあとに書いた報告書や論文のたぐい。さらには、撮影した写真のプリントと、ネガフィルム。ベスネル氏とやりとりした手紙。机の引き出しや、ファイルから、なにかにとり憑かれたようにそれらのひとつひとつを探し出し、まとめると、私はアパートの中庭に向かった。
中庭には、住人がバーベキューにでも使えるように、ということなのだろう、煉瓦とコンクリートで野外炉がつくられている。
私は、上につもった落ち葉を払いのけ、持ってきたものをすべて、炉の中につめこんだ。
台所で見つけてきたマッチを擦って、そこに落とす。
2本、3本、と落としていくと、やがて、火がめらめらと燃えはじめ、プリント用紙や印画紙は、ただの黒い灰に変わっていった。
それから私は自室に帰り、デスクにあったノートパソコンを手に取った。
自分の頭より高いところまで持ち上げて、そこから、床に叩きつける。
パソコンは、コンクリートの表面に薄いカーペットをしいただけの床に当たって、わずかに跳ね返る。
外殻はおもっていたよりも堅牢で、一度では、目に見える変化はなかったけれど、同じことを何度かくりかえしているうちに、プラスチックが割れ、キーボードが吹き飛び、中身の基盤類が露出した。
私は、収納庫から出してきた金槌を手にして、転がり出てきた銀色のケースに入っているハードディスクに狙いを定め、何回も何回も、振り下ろした。
しばらくしてニシちゃんが帰ってくるまで、私はノートパソコンの残骸を前に、放心状態のまま、座りこんでいた。
月曜日。
私は重い頭を枕から引きはがし、シャワーを浴びて、学校に行った。
指導教官に会い、いま行っている研究をやめることと、もしかすると大学院もやめるかもしれないことを告げた。
教授はいつもどおりの、援助を惜しまない姿勢で、研究テーマを変えても博士課程をつづけることの大切さを説いてくれた。
大学院には、とどまるとおもう。
教授の言うとおり、ここでキャリアを変えてしまうのは、もったいないことだ。
けれども、楼家島にかかわる研究、自分自身の祖先に対する興味からはじめたこの研究に手をつけることは、もう二度とないだろう。
私には、知ることが許されていないのだ。
すべての秘密を知ることができるようになる日は、いつか来るのかもしれない。
兄や、インスマスで会ったあの女性のように、私が海に招かれる日が来ることも、あるのかもしれない。
しかし。
インスマスでの夜、廊下の声が言っていたように、私に流れているのは、薄い血でしかないようなのだ。
顔にあらわれている「インスマスの外見」の特徴も、ひと目見ればそれとわかりはするけれども、あの女性や兄ほど顕著なものではない。
だから、もしかすると私は、ずっと陸の上で生きていかなくてはならないのかもしれない。
「人」とは明らかに異なった、この容貌を持ったまま。
同じ血が流れているはずの同胞と一緒になることも、彼らの中で受け継がれている伝統に触れることも、許されないまま。