『ミスカトニック大学留学日記』(中)


写真 ―2008年6月19日の日記より


 何者かに追われていることに、私は気がついていた。


 天文館のアーケードの雑踏の中。実家近くの商店街。最寄りのバス停から実家に帰る途中の、石垣のあいだの細い道。
 ふと視線を感じてふりかえると、そこに実体のあるものはなにもない。
 けれども、誰かが、あるいは何かが存在していた気配だけが、電柱の裏、八百屋の軒下、石垣の上の植え込みが落としている濃い影の中に、くっきりと残っているのだ。
 理由は、なんとなく推察がついている。
 数日前に現像からあがってきた写真。
 そのうちの何枚かは、楼家島に滞在中、とある拝所で撮影したものだった。


 岬の根元、巨大な岩がいくつも積み重なったようになっているところを背に、ちいさな社が一軒建っている。
 島の住民に、田子ん様と呼ばれ、崇められている神を祀った社で、いちおうは朱塗りの鳥居に赤い屋根の本殿、神道式の体裁をとってはいるが、実際に祭祀の場となっているのは、その本殿の奥、巨石の下、深く潜った場所にある拝所。
 おそらくはこの島に本土の神道が伝播する以前からそうしてあった場所だ。
 ほんとうは写真撮影などさせてはいけないのだけれども、学問のためだというなら特別に。
 はじめ私が肩からカメラを提げていることをみとがめた、社を管理している老人は、私が来訪の目的を告げると、強い島の訛りのある言葉でそう言って、拝所へとつながる道を示してくれた。
 道は巨岩のあいだをくぐり抜け、最後には、地面に口を開けた暗闇の中につながっている。
 洞窟内に入ると、しばらくは真っ暗な下り坂。
 田子ん様は光を嫌うと言われており、実際に田子ん様を呼び出しておこなうとされる祭礼は、新月の夜、完全な闇の中で執行される。
 だから、懐中電灯などはもとより、フラッシュも使ってはいけないと念を押されていて、結局、許可を得たとことで、まともな写真など撮れそうにもない。
 けれども、足下が平らになって、そのあとしばらく壁を伝って進んでいった先は、これまでの通路よりもかすかに明るい部屋だった。
 部屋といっても、おそらく天然の洞窟の一部。
 広さは十畳敷ほどで、見上げると高い高い天井部分にちいさな隙間があって、そこから昼の陽光が、ほんのわずか入りこんできているのだ。(おそらく、このせいで祭礼をおこなえるのは新月の夜に限るとされているのだろう。)
 どこか光の届かないあたりから、水の打ち寄せるような音が聞こえるところからすると、海にもつながっているらしい。
 拝所というからには、祭壇か祭祀の道具類が設置してあるものと勝手におもっていたが、目に見える範囲に、そういったものはない。
 がっかりしたけれど、せっかく写真撮影を許してもらった上に、弱々しいが光源もある。
 何もしないのももったいないので、私は一眼レフのほうのカメラを三脚にセットして、バルブ撮影に使うアタッチメントをとりつけた。
 シャッターをしばらく開放したままにして長時間露光をおこなうことによって、低光量の場所での撮影もあるていど可能になる。
 夜景などを撮る場合、そうしておくことで、肉眼では見ることができないほど暗い場所にあるものが写りこんだりすることもあるのだ。
 私は角度を変えながら、何枚か写真を撮った。
 フィルム式のカメラなので、その場で写真のでき具合を確かめることはできない。
 長時間露光の撮影も、やるのは5年ぶりくらいのことだから仕上がりには期待しないことにして、私は鹿児島に帰ったあと、フィルムを現像に出したのだった。
 受け取った写真の一枚を目にしたとき、私は背筋に戦慄が走るのを感じた。
 写っている。何かが。
 岩肌にある凹凸。
 それが、天井から忍びこんだかすかな陽光と、洞窟内の地面から反射した、弱い弱い光を吸い込んで、肉眼で見るよりもはっきりと、そこに現れていたのだ。
 洞窟の壁面にほどこされたレリーフ。それは、そのように見えた。


 その形を述べることを、私はここですることができない。
 人間の言葉でどんなに筆舌を尽くしても、表現しきることができないほど、異形のものであった、とだけ言っておこう。
 そして、それを見てしまったせいで、私は正体の知れない何者かに、追われる身となった。
 ここ数日、私は外出もせずに、自室に引きこもっている。
 いつ何時、あの気配が家の中に現れるかわからない。
 両親には身体の具合が悪いと言った。
 いまのところ、信じてもらえているようだ。


*****

手紙 ―2008年7月10日の日記より


 火曜日の夜、指導教官からメールで呼び出しがくる。水曜日、何時でもいいからオフィスまで来るように、とのこと。めったにない (たぶん、いままで一度もなかった) ことなので、なんだろうと思いつつ (怒られるんだろうか、という不安も半分)、行ってみると、一通の手紙を渡された。


 先週、アーカムに戻ってきてからはじめて指導教官に会ったとき、楼家島での事前調査の報告とともに、島で撮った写真も彼に見せた。その中に興味をひくものが何枚かあったようで、以前ミスカトニック大学で教鞭をとっていて、いまは退官している教授に連絡をとってみる、と言われていたのだ。その日のうちに電話をかけたところ、返事に書状がとどいた、ということらしい。
 

 いまどき、郵便で手紙を送ってくるとはめずらしい、と思ったが、差出人の住所を見て納得した。たぶん、ブロードバンドなどというものがとどいてもいない、農場か森林の真ん中にぽつんと建った一軒家に住んでいるのだろう。(アメリカは科学技術先進国ではあるけれど、国土が広大すぎるので、ほかの、もっとぎっしり詰まった国々にくらべると、インフラストラクチャーの整備が行きわたっていない場所がとても多い。) 不便かもしれないが、引退した大学教授、という人種の中には、そういう生活を望む人がいてもおかしくはない。


 手紙は非常に達筆な筆記体で書かれていて、解読するのに難儀したけれども、どうやら、写真を送ってほしい、というのが主旨であるようだった。私が撮影した楼家島の祭祀施設や祭具の写真に、彼がいまも研究を続けているとある文様と似たものが写っているかもしれない、と、私の指導教官が言っていた、というのだ。
 

 とりあえず、いまはどんな手がかりでもほしいので、返事をすることにした。手書きの書状で来たので、返信も同様にするべきだろう、とおもって書きはじめたのだが、これが意外と大変だった。日本語もそうだけれど、英語も手書きで長文を書くことなど、最近ほとんどしていなかったので、スペルはいちいち確認しないと不安になるし(PCだとスペルチェックに頼りきりだから)、書き損じは何度もするし。苦労して書き上げたものを、さらに清書していたら、一日が終わってしまった。


 焼き増しに出していた写真のほうが、今日あがってきたので、一緒に封筒に入れて、さっき投函してきた。自分の研究にも役立つ展開になるといいのだけれど。


―2007年7月16日の日記より


 先週手紙を出した、ミスカトニック大学の元教授から返事が届く。どきどきしながら開封したのだが、入っていた便箋に書かれていた文章は短いものだった。
「手紙は届きましたが、あなたが同封したと書いている写真が見あたりません。もし入れ忘れたのだったら、もう一度送りなおしてもらえないでしょうか。」
 入れ忘れ? と、あわてて身のまわりを探したけれども、写真はどこにも見あたらない。発送したときに、どこで何をしたか、必死に記憶の糸をたぐる。封筒から出したり、脇に置いてそのままにしてしまったりしたのかもしれないが、おもいだすことはできなかった。


大事なときにかぎって、こういう大失敗をしてしまう。しかたがないので再度焼き増しを注文してきた。


―2008年7月19日の日記より


 夕方、帰宅すると、見慣れた流麗な筆記体であて先の書かれた封書が郵便うけに入っていた。例の元ミスカトニック大学教授の筆跡である。


 楼家島の写真を再送したのは、つい昨日のことなので、その返信にしては早すぎる。不思議におもいながらも開封してみた。あいかわらず達筆すぎるうえ、今回は急いでしたためたとみえ、判読するのにより時間がかかる字体だったが、それほど長い文章ではなかったこともあって、ほどなくして読み終えることができた。


 ただ、その内容は、いまいち真意をはかりかねるものであった。
「先日こちらから送らせていただいた2通の手紙はそちらに届いているでしょうか。1通は、あなたからの封書に写真が同封されていなかったことを告げたもの、もう1通は、私の研究の詳細を記したものです。(後者は、前者よりも先に投函しました。) どちらか、あるいは両方ともを受け取っておられないようでしたら、至急、次のアドレスにあてて返信ください」
 

 返信先として書かれていたのは、私のしらない町にある郵便局の、私書箱のアドレスだった。彼がいま住んでいる町とも別の場所だ。けれども、そこに返信するべき理由が書いてあるわけでもなく、よくわからない。ただ、とりあえず、私は「もう1通」のほうの手紙を受け取ったおぼえはない。それに、字は明らかに彼の手によるものだし、誰かが私を欺こうとしているとはとてもおもえない。(そんなことをしてなんの意味があるだろうか。) 返事だけはしておいたほうが親切なのだろう。(もっとも、私のアパートでは、よく郵便物がほかの部屋に誤配されていることがあるので、念のためそのことも書き添えておこうとは思う。)


―2008年7月25日の日記より


 ふたたび、例の元ミスカトニック大学教授から封書が届いた。前回返信先として指定されていた私書箱が差出人の住所として今回も書かれている。開いてみると、あいかわらずの達筆な筆記体が便箋を埋めている。
 書状の内容は、だいたい次のようなものだった。


 先日は、説明不足の手紙を送って申し訳ない。
 手紙がきちんとあなたの元に届いているか、早急に確認したかったのだ。
 それには理由がある。どうやら、私があなたに送った2通目の手紙 (私の過去の研究内容を詳細に記したもの) が、何者かによって回収されてしまったようなのだ。
 そのことを、私は3通目の手紙 (写真の不着を知らせるもの) を投函しにいったときに、郵便局員から聞いて知った。
 彼女の話によると、私が手紙を投函した数時間後、私の代理を名乗る者があらわれ、誤りがあったから、と、それを引き取っていったのだという。(私は断じてそのような者を郵便局に遣わしていない。)
 そういうことがあったので、3通目の手紙は、誰がなんと言ってきても引き渡してはならない、と念を押して投函した。
 けれども、それでも不安が残ったので、後日、次の町の郵便局まで車で行き、私書箱を開設して、確認の手紙をあなたに送った、という次第なのだ。
 これら一連のできごとから考えると、あなたの写真も、あるいはこれに関わっている何者かによって抜かれてしまったのかもしれない。
 私からの3通目の手紙は届いている、ということだったので、もしかすると、あなたは写真を再度投函してくれたのかもしれないが、私はまだそれを受け取っていない。
 今度から、私への通信を投函するときは、周囲の様子に気をつけてほしい。あるいは、普段利用しない郵便局から発送してほしい。


 ほかに、気になった部分の抜き書き。
「(郵便局員の証言によると) 私の代理を名乗った者は、妙に細長い頭と平らな鼻、それに、奇妙に顔の両側に離れた、ぎょろりとした目の持ち主だったという。この表現は、私に典型的なインスマスの外見 (the Innsmouth look) をおもいださせる」
「帰宅してから、私はあなたから受け取った1通目の手紙が入っていた封筒をくわしく調べてみた。それには、水に濡れたような染みがいくらかあり、あて先を記した文字にも、にじんでいる箇所があった。受け取った当初は、雨に濡れたせいだろうと気にかけていなかったのだが、顔を近づけたところ、これらの染みから、かすかな、けれども奇妙な臭気が発せられていることに気がついた。それは、腐敗した魚介類の臭いをおもわせるものだった」


 「典型的なインスマスの外見」というのはどういうことだろう? こういうのは、(元) ルームメイトに聞けばわかりそうな気はするけれども、彼女はもうここにはいない。


―2008年7月29日の日記より


 先週受けとった手紙の内容で気になることがいくつかあったので、すこし調べものをする。


 インスマスアーカムの隣にあるこの町は、大学の図書館に残っている昔の新聞などによると、20世紀の初頭、2度ほど疫病におそわれているらしい。その影響か、それとも、ほかに理由 (住民が異端の宗教を信仰していた、とする文献もある) があるのかはわからないが、インスマスの住民の多くが独特な風貌をもっていた、とする記録や報告が、ほぼおなじ時期にいくつか作成されている。ミスカトニック大学元教授からの手紙にあった、「インスマスの外見」(the Innsmouth look) という表現は、その特徴的な外見をさして (おそらく差別的に) 使われたものだったようだ。そして、「インスマスの外見」の内容は、文献間でほぼ共通している。「細長い頭と平らな鼻、それに、奇妙に顔の両側に離れた、ぎょろりとした目」。元教授の手紙の文面にあったものとも一致する。


 さらにいえば、これらは、楼家島 (るいえしま) の住民の一部が持っている外見的特徴とも多少似ている。「細長い頭」の部分は完全にはあてはまらないが、私の兄もそうであるように、「平らな鼻」と「顔の両側に離れた、ぎょろりとした目」をした住民は多いといわれているし、実際私も何人か見かけた。(さらにいえば、私も、兄ほどではないが、そういった特徴を受けついでいるとおもう。)


 「インスマスの外見」。楼家島。私の家族……。


「うひゃあっ」
 左耳のあたりに熱気を感じたかとおもうと、次の瞬間、突然、背後から左肩をつかまれて、私は椅子から飛び上がるほどおどろいた。おもわず、叫びごえをあげてしまう。それから、そこが図書館の閲覧室だったことに気づいたけれども、もうあとの祭だ。恐る恐る、周囲をみまわすと、非難がましい視線が部屋中からそそがれているのがわかった。
「ごめん。そんなにびっくりするとはおもわなかった」
 ひそめた声に、ふりかえると、そこには学部の女友達が、ばつの悪そうな顔で立っていた。


―2008年9月15日の日記より


 私が楼家島で撮影した写真がきっかけで手紙をやりとりするようになったミスカトニック大学の元教授。8月のはじめころ、すこしだけやりとりが途絶えたのですが、その後、二度ほど封書がとどきました。


 8月半ばにとどいた一通めは、いままで私たちのあいだのやりとりが何者かに途中で妨害されているのでは、と疑っていたけれども、それはどうやらおもいすごしだったらしい、という内容。(このときから、差し出し元の住所が、最初の自宅とおぼしき場所に戻っていた)。


 二通めがとどいたのは、9月に入ってからのこと。私が書き送った研究内容が非常に興味深いもので、自分の手許にある文献などを参考にしながらくわしい話を聞きたいから、いちど自宅まで来てもらうことはできないだろうか、と書かれていた。


 これらより以前に受けとった手紙は、すべて、独特の雰囲気のある流麗な筆記体と詩的な言いまわしでしたためられていたのだけれども、この二通の中身はタイプライターで打ったとおもわれる機械的な文章だった。持病の発作にみまわれて、手が震えて字が書けない状態にあるのだという。(両方の手紙に、そう説明があった)。ただ会話には支障がないので、私の都合がいいときに、いつでも来てくれてかまわない、とも書いてあった。


 行ってみたい、とはおもうけど、ひとりで行くのはちょっと不安。(その元教授にひとりで会うのが不安、というわけではなくて、単純に、遠いのと、車で行かないといけない場所っぽいので、ひとり旅はしたくないのです)。


―2008年10月16日の日記より


 昨日 (水曜日)、学校から帰ってくると速達の郵便がとどいていた。


 差出人をみてみると、件のミスカトニック大学を退官した教授。最近は手紙のやりとりが途絶えていたので、1ヶ月ぶりくらいに受けとる通信ということになる。


 この教授といえば、非常に流麗な筆記体で手紙を綴ってくるのが常だった。ただ、前回送られてきたものは、本人の持病の発作が起きてしまったとかで、タイプライターで打たれていた。そして、今回の手紙は、それらのどちらでもない筆跡で書かれていた。書体の流麗さは(かすかには残っていたけれども)はるかかなたに押しやられ、一見しただけでは同一人物が書いたものとはおもえないほどに乱れていた。


 その理由は、文面を読むにつれて明らかになった。非常に急いで書かれたものだったのだ。
「私はまさにいま、自宅の地下室から、決死のおもいで脱出してきたところだ。インスマスの外見をした魚人どもが、私をそこに閉じ込めたのだ。奴らの狙いがなにであるのか、私には特定することができない。しかし、非常に危険な状況であることに間違いはない。この手紙は、アーカムに住んでいる、信頼できる数人の人間にだけ出している。この手紙がつくころをみはからって、アーカム行きの電車に乗る。それまで、私が奴らから逃げのびることができたらの話だが。金曜日まで待てば十分な時間があるだろう。金曜日の正午過ぎにアーカムに着く電車に乗る。駅に来てほしい。あなたの助けが必要だ」


 消印をみると、投函されたのは月曜日。明日が金曜日だ。


―2008年10月20日の日記より


 金曜日。私は正午すこしまえに、アーカムの鉄道駅に行った。


 12時台の発着は、12時19分着、21分発の上り電車が一本だけ。やたらと大きな駅舎の一角にある待合室は薄暗く、がらんとしている。等間隔に置かれている長椅子には、まばらにしか人が座っていない。プラットホームからの出口に目を配れることをたしかめながら、私はいちばん手前の長椅子の、まんなかあたりに腰をかけた。合成皮革の座面はひんやりしていた。


 5分もたつと、手持ちぶさたになった。そういえば、これから来るはずの人の顔を知らない。もっとも、年格好でだいたいの見当はつくだろう。それに、この時間の電車に乗ってきて、アーカムで降りる人は、そもそもそれほど多くないはずだ。


 10分ほどたった。さきほどから、背中に視線を感じるような気がする。けれども、ふりかえってみても、待合室の奥のほうに2、3人、下を向いて座っている人がいるだけだ。


 私が座っている長椅子の、左側の端に、男の人が来て腰をおろした。新聞を広げて読みはじめる。電車が来るまで、まだ15分くらいある。


 左のほうからも、視線を感じる。そちらに目を向けると、その瞬間、男性が、新聞の角を立てて、顔をかくしたように見えた。顔がかくれる直前に、目が合ったような気がする。よどんだ青色をたたえた、ぎょろりとした目だったようにおもう。


 あと5分で電車が来る。うしろで、こつこつこつ、という音。ふりむくと、丈の長いコートを着て、つば広の帽子を目深にかぶった男の人が通っていくところ。


 12時19分。電車はまだ到着していない。待合室には人がすこし増えた。背後からも横からも、視線を感じるような気がする。涼しいのに、手のひらが汗ばんでくる。


 5分遅れで電車が来た。数人が立ち上がって、プラットホームにむかう。待合室に残ったままの人も何人かいる。左横の男性は、まだそこに座って、新聞のむこうに顔をうずめている。電車からは、誰も降りなかった。


 次の電車は、1時間後までない。しかも、下り電車だ。次の上り電車はおよそ2時間後。また、かつかつ、という音がして、ふりかえると、さきほどと同じコートの男が、逆方向から来て私のうしろを通過していくところだった。次の電車を待つべきだろうか。


 座ったまま、せわしなく足ぶみをくりかえす。誰かにみられているような気がする。


 たくさんの視線が、私にそそがれている。けれども、まわりをみまわしてみても、誰とも目は合わない。左隣の男性の持っている新聞が、がさがさと音を立てる。コートの男が、足音を高らかに立てて、背後を通る。


 みられている。私はたえられなくなって、立ち上がる。


 待合室を出るときに、室内の目という目がすべて、私のほうをぎょろりと向いたような気がした。


*****

もうひとり ―2008年11月3日の日記より

 
 外は雲が低くたれこめるくもり空で、私はアーカムの旧市街の近くにあるダイナーで、ひとりで4人がけのブースを占拠して、本を読みながら、ターキーサンドイッチとフライドポテトの夕食を食べているところでした。
 店内は空いていて、私のほかには、常連らしい老人がひとり、カウンターに座っているだけ。
 からんからん、という鈴の音とともにドアが開いて、入ってきた新しい客が、彼女でした。


 彼女は、私とそれほど違わない背丈の (つまり、それほど背の高くない)、黒っぽい髪の持ち主で、緑色のフードつきの上着を着ていました。
 キャッシュレジスター台の手前に立って店内を見まわしていた彼女の目と、私の目が合って、その瞬間、私たちはおたがいに、「あっ」と声をあげたのです。
 長い頭、低い鼻、(眼鏡の奥の) 離れた目。
 彼女の顔には、この町で言われるところの「インスマスの外見」の特徴が強くあらわれていました。
 けれども、それと同時に、彼女の外見には、私と共通している点がいくつもあったのです。
 肌の色。髪の毛の色。瞳の色。あきらかに、アジア系の組み合わせ。
「あの、どちらのご出身ですか」
 そう訊ねてきた彼女の英語には、とてもなじみの深いアクセントがありました。
「日本人ですよ」
 私は日本語で返事をしました。
 そして私が勧めると、彼女は私のテーブルにやってきて、向かい側の椅子に腰をおろしました。


「日本人で、私と同じような顔をしている人と会うのははじめてです」
 そう言った彼女は、私とほぼ同年代のように見えたのですが、正確にいくつぐらいなのかはよくわかりませんでした。
 私は、自分の家族のこと、そして、楼家島のことを、彼女に話しました。
 たしかに、私にとっても、自身の家族と楼家島の島民以外で (だから、自分と家系的につながっているかどうかがわからない人で)、さらにインスマスの住民でもない上に、似たような外見的特徴を持っている人と接するのははじめてのことだったのです。
 彼女が生まれ育ったのは、私が名前を知らない町でした。
 漁港のある町だ、と彼女は教えてくれました。
 父親は漁師でした、と彼女は言い、それからこう付け加えました。父は、私がまだ幼かったころに、海で行方知らずになりました。
 父親ゆずりの容貌のせいで、いろいろと苦労した。彼女は、そう続けます。だから、インスマスを訪れたとき、はじめて、自分が属する場所を見つけたような気がしたのです。
 彼女は、インスマスの住人と親しくしているようで、町を本拠にしている、とある教団にも参加しているとのことでした。
 数週間後、復活祭とよばれる、教団の大事な祭礼がおこなわれる。彼女は、その中で重要な役割を果たすことになっている。そうも言っていました。
 祭礼に参加してもかまわないはずです。彼女は言ってくれましたが、私は、行けるかもしれないけれども、行けないかもしれない、とあいまいな返事をしました。
 インスマスの人は、教団の人は、みなよくしてくれる。やっと、帰るべき場所にたどりついたのです。血のつながりは、大切なものですね。あなたも、そう感じると思いますよ。
 そう語る彼女の言葉を狂信的だと思ったり、疑ったりしたわけではないのです。
 そういう場所があれば、どれだけ安心できることか。
 だけど、彼女のこれまでの人生経験と、私の人生経験は、必ずしも一致するわけではありません。
 彼女と違って、私は両親に守られ、優しい人たちに囲まれてこれまで生きてきました。
 そういう立場にいるのに、同じ境遇ね、と彼女が哀れんでくれることに、引け目を感じたのかもしれません。
 抑圧された主体の視点、というものを、私は知識としては理解しているつもりだけれど、だからといって、それをすんなりと自分のものにするのは、難しいのです。
 彼女のほうも、強く勧めすぎたと思ったのか、祭礼についてはそれ以上何も言いませんでした。
 あなた次第だけれど、もし来たくなったら連絡を下さいね。
 私たちは、電話番号とメールアドレスを交換しました。
 
 
 彼女が私と同じようにミスカトニック大学で講義を受けている、ということで、私たちはほかの話題でも意気投合して、そのあとも長い時間話しこんでしまいました。
 食堂を出たときには、もう深夜近くになっていました。
 また会いましょう。そう言って、私たちは別れたのでした。


*****

私が海に帰るとき (には、こんなふうになるといい)


「帰ろう」「いっしょに行こう」
 そんな声が私の頭の中でくりかえされるようになったのは、ここ数日のことだった。
 それは、5年ほど前、桜島フェリーにひとりで乗っていたときに聞いたものにとてもよく似ていて、母や父に呼びかけられているかのように、私の胸になつかしさを呼びおこす。
 あのとき、私はその声にしたがわなかった。
 けれども、そうしなかったことを最近すこし後悔しはじめていた。
 私のその想いに呼応するように、声はささやきかける。
「いっしょに行こう」「帰ろう」
 だから、今度は応じることにしたのだ。その誘いに。


 どこに帰ればいいのか。
 誰にも教えてもらったことはなかったけれども、それは私の身体が知っていたようだ。
 車に乗り、北へ向かう。
 インスマスの港。
 以前おとずれたときに湧いてきた、理由のわからない郷愁にも、いまは説明をつけることができる。
 個人としての私が郷愁を感じていたのではないのだ。
 私の中にある、種族としての記憶が感じていたのだ。


 私の先祖は、ここに住んでいた。
 インスマスの町に、ではない。湾に黒い影となって浮かんでいる、岩だらけの小島の下、海の深いところに。
 いまはそこにはだれもいないことも、私にはわかっている。
 けれども、そこへ行けば、その先は誰かがみちびいてくれるだろう。
 彼らが移り住んだ場所へ。
 私が「帰る」べき場所へ。


 私は岸壁の近くに車を止めた。
 靴を脱いで堤防の上に置き、素足になる。
 それからゆっくりと、並べられたテトラポッドをつたって水際まで下りていった。
 そろりと伸ばした足の指先が、静かにたゆたっている水面に触れる。


*****

―2008年11月15日の日記より


 所用でインスマスまでいってきます。くわしくは帰ってきたら書くとおもいます。


 バスに乗り遅れないようにしないとなー。



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