『ミスカトニック大学留学日記』(上)


アーカム ―2007年10月5日の日記より


 アーカムの町は、マサチューセッツ州の大西洋岸がわ、ミスカトニック川の河口近くにあります。ボストンからは北に20マイルぐらい。それほど大きい町ではなく、ミスカトニック大学がなければ典型的なニューイングランドの田舎町という感じになりそうです。


 町はミスカトニック川の南岸と北岸に沿っていて、ほぼ真ん中を川が流れています。この川の流域はミスカトニック渓谷(Miskatonic Valley)と呼ばれているだけあってけっこう削られており、アーカムの町も、ほとんどが谷の斜面に沿うように建っています。大学のあるあたりだけは平らな低地になっていて、以前キャンパスが洪水の被害を受けたこともあるとか。


 かつては海上貿易の拠点のひとつとして一時期栄えたこともあったアーカムですが、いまは外港としての機能は残っておらず、また、主要な産業も特になく(これも昔はあったんだと思いますが)、大学町の雰囲気が強いです。


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ミスカトニック大学 ―2007年10月9日の日記より


 私が在学しているミスカトニック大学は、アーカムの町に1690年に設立された伝統ある大学です。設立当初はArkham Collegeという名前で、それからMiskatonic Collegeと呼ばれていた時代を経て総合大学になり、Miskatonic Universityになりました。


 もともとは入植地内の高等教育の場として、教会を中心に発足したものが発展したようです。ニューイングランド地方にある私立大学(ハーバードとかエールとか)は、わりと設立経緯や歴史が似ているところが多い、らしいです。現在の大学の格はずいぶん違いますけど……。


 キャンパスは、ミスカトニック川南岸の、川からは数ブロック離れたところにあります。特に壁などで仕切られた敷地があるわけではなく、町の中に建っている感じで、中心のあたりはほぼ大学の施設だけですが、端のほうになると、一般の家やお店と大学の建物が混在しているところもあったりします。キャンパスのサイズはそれほどでもなく、タテ (南北) は町の1ブロックにおさまってしまう程度。ヨコ(東西)には長いですけれども、何ブロックぐらいあるのかは測ってみたことがないのでわかりません。こことは別に、Aylesbury Street Facilityと呼ばれるキャンパスが町を外れた西のほうにあって、場所をとる実験施設や新しい学部は一部そっちにあります。


 キャンパスの大きさもあって、学生の数はそれほど多いわけではありません。学部生、院生あわせて9000人ぐらいの、こぢんまりした学校です。


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大学院のこと ―2007年10月16日の日記より


 大学院の仕組みや印象なども少し書いておきたいと思います。


 私は、ミスカトニック大学の人類学部 (Department of Anthropology) に所属しています。博士 (PhD) 課程です。大学院生は、ひと学年あたり3〜5人 (全体で30人ぐらい)、専任の教授は6人という小規模な学部です。といっても、この大学ではこれくらいの規模が普通のようですが。


 人類学には文化人類学 (Cultural Anthropology) と、考古学 (Physical Anthropology) の両方があり、ミスカトニック大学でも、どちらでも専攻できるようになっています。私の専攻は文化人類学のほうです。研究内容については、細かい話になりそうなので、またいつか書きますね。


 アメリカの大学では日本とは違ってゼミという方式がなく、特に文系学部では学生ひとりひとりが指導教官について学ぶという感じになります。(理工系だと研究室単位で研究していることが多いので、日本と似たような感じかもしれません。) 私は日本で出た大学でも同じような仕組みで、ゼミもなかったので、あまりとまどったりはしませんでしたが、自分の学年以外の人と友達になるのは大変かもしれませんね。似たような研究をしていたり同じ指導教官についている人だと、授業も同じようなものを取るので、わりと仲良くなったりもしますけどね。


 あと、もうひとつ日本とちょっと違うなーと思うのは、一度就職したり、違う学部で修士を取ったりしてから、もう一度大学院にもどってくる人がけっこうたくさんいるのですね。(これも文系だから、そして、専門性がそこまで高くない学部だからなのかもしれません。) 私は日本の大学を出てから、ほとんどストレートでここに入ったので、同期や「後輩」も含めて、まわりには年上が多いです。


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住んでるところ ―2007年10月23日の日記より


 私は一昨年 (大学院に入って二年目) から、学部の同期のドイツ人の子とアパートをシェアして住んでいます。住んでいる場所も一昨年から同じところで、キャンパスの西のほうにある、古い家を改造したアパートです。いくつかの部屋を分割して、個別に住めるように台所とかバスルームを増設してあります。


 ちなみに、かなり古い家で、たぶん築100年は経っているのではないでしょうか。(欧米では、日本と違って家は石やレンガやコンクリートで建てて、長いこと建て替えないので、古い家は本当に古い。) 私たちが借りているアパートは半地下で、あんまり快適ではないうえ、キャンパスまでもそこまで近いというわけでもないのですが、ルームメイトがここが気に入ったと言うし、私はそんなに家にいるわけでもないので、引っ越す理由も特になく、ここに居ついたままになってます。夜は静かだし、キッチンやバスルームもちょっと設備が古いけど、何かが壊れているわけでもないから、それほど悪くもないともいえます。


 アーカムは、以前にも書いたように、ミスカトニック川の両岸に町が広がっています。北岸の高台になっているところは伝統的に高級住宅地なようで、立派な家が多く、学校関係の人はあまり住んでいないかもしれません。偉い教授とかは別ですけど。


 反対側、南岸の高台は、もともとは労働階級や移民労働者が住んでいた場所で、道も細く、ちょっとごみごみしています。大学の裏手や東側には、最近 (といっても10年以上前かも) になって建てられた学生向けのアパートもたくさんありますが、あまり造作のよくない建物も多いようで (間取りも同じだったりすることが多いし)、大学院生への評判はそれほどよくありません。学部生で寮に入らない人は、こういうところに住んでいることが多いようです。他に、私たちが住んでいるような、家を改造したアパートもそこそこあります。(大家さんにもよりますが、お家賃はすこし高くなることが多いです。)


 学校内には学生寮が3棟あって、うちひとつは大学院生専用になっています。ここはいちおう個室なのですが、部屋が、日本の住宅事情に慣れている私からしても、せまい! と思うようなサイズで、キッチンやバスルームがシェアになってしまうので、私は最初から入らないことにしました。(1年目はひとりでアパート借りてました。) 学部生用の寮は、一軒は比較的新しい高層建築で、もう一軒は昔ながらの建物です。中は住んだことがないのでわかりませんが、3人や4人で部屋をシェアする形式になっているようです。


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私の研究について ―2007年11月10日の日記より


 私が博士号論文研究にしようとしているトピックは、日本のある地域における特定の宗教観と、それにまつわる風習、それらが地域文化の中で果たす役割について、です。この「ある地域」というのは、鹿児島県にある楼家島 (るいえじま、と読みます。楼は本当は旧字体) という離島を中心にした一帯です。


 この楼家島に興味を持つようになったのは高校生ぐらいのとき。そこが祖先 (正確には明治時代ぐらいまでなので、祖先というほど昔でもないですね。ひいひいおじいちゃんぐらいの代まで) の地だと聞かされてからです。(私の本名を知っている人にはわかるとおもうけど、この島の名前がわが家の苗字の由来にもなってます。) それ以来島には何回か行ったことがあって、そのうちに気がつくようになったのですが、この島の土着神道は、本土の神道とちょっと違っています。


 どのように違っているか、というと、たとえば、島には洞窟の中につくられた拝み所のようなところがいくつかあって、それらがいまでも祭祀目的で使われています。(本土でみるような神社仏閣もありますが、それは本土の宗教が入ってきてから建てられたもののようです。) その拝み所で祀られているのは、西の海からやってきた神々であるとか、祖先の霊であるとか言われていて、そのため、これまでは沖縄における民間信仰 (ニライカナイ信仰などですね) と結びつけて論じられることが多かったのですが、それだけでは説明しきれない違いもたくさんあるのです。(具体的にいうと、洞窟の中に拝み所があることに代表されるように、地底、海底を神聖視する傾向にあることなど。) 


 現在では、それらの祭祀習慣は体系的には残っておらず、生活習慣や民話、他の宗教行事に混ざったかたちでばらばらになってしまっていますが、それらが楼家島の地域文化の中で、どのようなはたらきを保っているのか (あるいは、いないのか)、といったあたりを研究していきたいと考えています。


 ちなみに、ミスカトニック大学には、宗教に重点をおいた文化人類学のコースがあって、そのためにここに進学することを決めました。けれども文化人類学専門の教授はアフリカや南アメリカの研究をしている人が多く、アジアに詳しい人はほとんどいません。なので、私は、アジア研究を中心にしたAsian Studiesという学部や、古宗教の研究を専門にしている (けど、ヨーロッパ研究が中心な) Medieval Metaphysics研究プログラムの教授と話をしたり、そっちの授業も取ったりと、わりとややこしいことになってしまっています。ただ、他の学校では、学部の垣根を越えたとしても、そこまで「東アジアの古宗教」を研究するのに適した環境にはならなさそうなので、やはりここを選んだのは正解だったのだと思います。


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インスマスに行ってきました ―2007年11月25日の日記より


 今日は、アーカムの隣町のひとつで、海岸沿いにある Innsmouth (インスマス) のアウトレットモールに買い物に行ってきました。ルームメイトと、私の友達ひとりもいっしょでした。


 モールはあいかわらず空き店舗も多くて、時期のわりには混んでもいなかった。お目当てのGAPに行ったのですが、あまりサイズが合うものがなく (まあ、私は背が低いから、アメリカでサイズの合う大人ものはそもそも少ない)、セーターを一着だけ買いました。あとは、鞄屋さんとか、アウトドア系の商品を扱っているアウトレットショップを見て、耳あてを購入。最近の耳あてというのは、むかしのような、頭の上にバンドがある、いわゆるヘッドホン型ではなくて、バンドが首の後ろに来るものが多いんですね。耳掛けヘッドホンが登場した影響かな? 


 ルームメイトは本を買うのがやたら好きなので、ここでも本屋に行っていましたが、収穫は何もなかったとのこと。そうだろうなあ……。


 買い物のあと、インスマスの町中もちょこっと車で通りました。空き家が多くて、たしかに寂れている感じ。ルームメイトに言われて、Devil Reef という、沖にある岩礁が見えるあたりにも行ってみました。特に壮観というわけでもなく、寒かったのでとっとと帰って来てしまったのですが、夏のあいだは遊覧船で近くまで行けるんだそうです。


 ところで、行きの車の中でルームメイトが話していたんですが、このインスマスの町は、100年ほど前に悪魔 (邪神?) を崇拝する教団の中心になっていたことがあり、それに関していろいろと悪い噂がささやかれていたのだそうです。だから、アーカムの古くからの住民の中には、いまだにこの町には絶対に行こうとしない人も多いのだとか。モールだけでなく、町全体が寂れた様子なのは、それとも関係があるのかもしれません。ただ、町の中の、人が住んでいてちゃんと機能しているあたりは、この地方のほかのちいさな古い町とあまり変わらないような印象を受けましたけどね。


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 ―2007年11月28日の日記より


 私は午前3時30分鹿児島港発の、がらんとした桜島フェリーのデッキに立って、手摺りによりかかり、10メートルほど下でゆっくりと波打っている暗い海面をぼんやりと眺めていた。
 船は全行程15分の航路のちょうど半分あたりまで達したころで、エンジンが発する低い唸りと船体にぶつかる水の音以外、なにも聞こえなかった。


 そのとき、私はふと、さきほどまでは船首がたてる泡沫だけが流れていたはずの、船体から数メートルしか離れていないところの水面に、浮かんでいるものがあることに気がついた。
 それは、球の上半分のようなかたちをしていた。潜っている人が頭の先だけを水の上に出した状態にも似ていて、大きさも人の頭のそれと同じぐらい。
 けれども、それが人間の頭部であるようにはとてもおもえなかった。
 そこに頭髪のようなものはなく、ちょうど空にかかっていた月の明かりと、フェリーの船室から漏れているかすかな光を、ぬるりと反射していたのだから。


 私が目をそらすことができずにいると、それは一度水中に消えた。
 しかし、ほとんど間を置かず、ふたたび私の視線の先に姿を現した。
 さきほどとは違って、今度は、その物体の表面には、濁った青いような緑のような色に輝くふたつの光点があった。


 目が合った。と、私はおもった。
 そのふたつの点が瞳であるという証拠はどこにもなかったのだが、直感的にそう感じたのだ。
 そして、それらにみいっているうちに、私は不思議な感覚にとらわれていた。
 なつかしい。行きたい。一緒に。
 しばらくの間、私はまばたきもせずに、その物体とみつめあった。
 船は動き続けていたけれども、それは、追いかけるように、ずっと私の正面あたりについて来ていたのだ。
「帰ろう」
 しかし、その衝動に反抗するかのように、私の両手は手摺りをかたく握り締めている。


 葛藤は何分ぐらい続いただろうか。
 おそらく実際は5分にも満たなかったはずなのに、私にはとてつもなく長い時間のように感じられた。
 フェリーが桜島港に入港するために進路を変え、その物体は私の見えないところへ遠ざかった。
 それとともに、私の頭の中を満たしていた説明しがたい想念も、次第に消えていった。
 春先の、まだ肌寒さの残る夜のことだったのに、体中が汗でびっしょりになっていた……。


 4年ほど前のその日、当時受験していた大学院から不合格の通知を受け取った私は、夜中に兄の車を勝手に借り出して、桜島フェリーに乗りに行きました。これは、そのときフェリー上で実際に起こったことです。
 この前にもこの後にも、似たような体験は全くなく(夜中にひとりでフェリーに乗ったのもこのとき限りではあるんですが)、そして、私は次の年にミスカトニック大学に合格してアーカムに来て、それ以来このことをおもいだすこともほとんどありませんでした。


 なんですが、なぜか最近、このときのことがよく夢に出てくるのです。日曜日か月曜日の夜に一回、昨日の夜も一回、夢にみました。はっきり言ってあんまりいい夢ではないので、なんだか不気味です。
 そんな感じで夢見が悪いので、今週はちょっと疲れぎみ。でも、病んでいるとかそういうわけではないですよ。私は元気です。


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インスマス再訪 ―2008年3月24日の日記より


 春休み最終日の日曜日、私はアーカムインスマスをむすぶ州道に車を走らせていた。
 州道といっても、このあたりでは中央線すらも剥げかけた片側1車線のぼろぼろの舗装道、ところどころ、どこに続いているのかもわからない分岐線があるほかは、冬枯れの茂みにおおわれた路肩が延々と続いているだけだ。
 この地方に本当の春が来るまでには、あとすこし間があったけれども、昼過ぎの太陽は天頂近くで輝いていて、車の中はあたたかい。
 風を入れるために、ほんのわずかだけあけていた窓から流れ込んでくる空気に、潮のにおいが混ざりはじめてしばらくすると、道の先に、教会の尖塔が2本ほど見えてくる。
 それが、インスマスの町だ。
 

 インスマスを訪れるのは、去年の冬以来のことだった。
 そのときは、友人たちをともなって、この町にあるアウトレットモールに買い物に来た。
 今回は、州道のインターチェンジのすぐそばの、そのアウトレットモールは素通りして、町の中心部に車を乗り入れる。
 メインストリートは、構造や建物のスタイルという意味では、アーカムや、そのもうひとつの隣町であるキングスポートのそれとさして変わらないように見えるけれども、人通りが格段にすくなく、戸を閉ざした店舗のほうが営業中の店よりも多い。
 日曜日だから、というのもあるのかもしれなかったが、ショーウインドウが板でおおってあったり、中を覗くことができてもコンクリートの床と壁が剥き出しになっている明らかな空き店舗も、数軒どころでなく目についた。
 町の中にふたつある教会のうちのひとつの前を通過しながら、その戸口あたりを見てみると、ここもドアには斜めに板が打ちつけられていて、教会名が書いてあったはずのプレートも、風雨にさらされてしまって判読することができないのだった。


 さらに車をすすめて、角をいくつか曲がると、海に面した、堤防沿いの道に出る。
 沖のほうから吹きつけてくる風はさすがに鋭く、私は車の窓を閉じた。
 いまはもう使われていない船着き場を横目にしばらく行くと、海側に駐車スペースがあった。
 奥にちいさな建物がひとつ。そのむこうには中くらいの大きさの船が1隻とまっている。
 からっぽの駐車スペースに入って、建物の前まで行ってみる。
 入り口のガラス戸から見える内部は暗く、戸に掲示してある貼り紙には、"The Devil Reef Scenic Boat Tour is closed for the season. Back in early May"。

 
 デビル・リーフというのは、インスマス湾の、陸からそれほど離れていないところにうかぶ小島のことだ。
 さきほど、海沿いの道に出てきたときから視界の中には入っていたけれども、この遊覧船乗り場からだと、ほぼ正面に見ることができる。
 私は車を止め、フロントガラス越しに島を眺めた。
 午後の陽光の中でも、全体がほぼ岩礁で成っているデビル・リーフは暗い色に沈みこんでいて、禍々しさ、というほどのものではないけれど、どこか人をよせつけない雰囲気を持っていた。
 いまはオフシーズンだから人気のないのは当然だが、観光の季節になったとしても、これを見にやってくる人が果たしているのかどうか。
 そんな疑念さえ浮かんでくるほどに。
 けれども私は、そんなその島から、目を離すことができないでいた。


 前回インスマスに来たときも、この場所に立ち寄った。
 同行していた友人の発案によるものだったし、天気もよくなくて、ほとんど滞在することなく移動してしまったのだが、そのときから、この島の見える風景が、どういうわけか私の心のどこかにひっかかってしまったようなのだ。
 理由はよくわからなかった。
 もう一度、同じ場所に行ってみたら、それがはっきりするのではないか。
 そう思って、今日、ひとりでインスマスを再び訪れることにしたのだ。


 結論からいえば、理由を見つけることはできなかった。
 直感や感情といったものに理屈をつけようとする行為そのものが、そもそも理不尽なことなのかもしれない。
 だけど。
 デビル・リーフの黒い島影を眺めているうちに、私は思いはじめていた。
 それは、郷愁に似た感覚なのだ。
 ただ、そうだとわかったところで、どうして私がこの風景に郷愁を覚えるのか、それはわからないままである。
 郷愁というのは、長いこと生活していた場所や、それをおもいおこさせる景色に対して抱くもののはずだ。
 しかし、私が生まれ育ったのは、鹿児島市内を見下ろす高台にある家で、目の前には噴煙を上げる桜島が毎日あった。
 海と島。
 それは共通点だけれども、スケールも、色も、空気のさわりごこちも、何もかもが異なっている。
 そして、この感覚には、うまく言えないけれども、私個人の郷愁というものとはすこし違うところがあるようなのだ。
 もっと、意識の奥のほう、深い、深いところからわきあがってくる感覚とでもいえばいいのだろうか……。


 気がつくと太陽は雲に隠れ、さきほどまではほどよくぬくまっていた車内に、冷気が忍び込みはじめている。
 私はキーをまわし、車のエンジンをかけた。
 ギアを後退に入れ、駐車場の中で転回して、最後にもう一回、海上に浮かぶ岩だらけの島に目をやってから、私はその場所を後にした。


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祖母のかたみ ―2008年4月28日の日記より


 仏壇のいちばん奥に掲げてある仏様の絵姿の、足もとあたりのところに、それはいつも置かれているのだった。


 白みがかった金色の金属でできたその物体は、高さ3センチメートル、幅5センチメートルほどで、手前にむかってゆるやかに湾曲している。
 両端は、そこで折りとられたかのように不均衡なかたちをしていたけれども、断面にあたるはずの部分はなめらかになっていて、ちょうど海岸に落ちている、波に洗われて角が丸くなったガラスの破片のようだった。
 もし、これが、壊れた何かの一部だったのだとしても、その破壊は遠い遠い昔に起きたのだろう。
 あるいは、本当に、海の深いところから波に流されてきたのかもしれない。
 こちらがわに向いている面の上下は、うすい波形の線でふちどられていた。
 そして、その線にはさまれたところに、いくつかのかたちが浮き彫りになっている。
 これらも、もとはしっかりとした意匠だったものが、長い年月か度重なる摩擦によって表面が削られ、茫洋となってしまったようにみえる。
 しかし、それらのかたちをたどることは、まだ可能だった。
 左右に配置されているのは、おそらく貝だろう。
 片方は巻貝、もう片方は二枚貝を模したものらしい。
 そして、中央に刻まれているのは……。


 それは、魚をかたどった模様であるらしかった。
 あるいは、海豚なのかもしれない。
 けれども、そこには、ふつうの魚や海豚にはあるはずのないものが付加されていた。
 そう、人間のそれをおもわせる、腕と脚が。
 そして、それらの先には、両生類のものにも似た、不釣り合いに大きな、水掻きのついた手と足がついているのだ。



 私の父方の祖父はまだ健在で、私の実家のすぐ近くの家に住んでいます。祖母は私が2歳のときに亡くなったそうですが、そのときのことはあまりおぼえていません。それが上の回想とどう関係しているかというと、上で出てくる「物体」は、祖父の家の仏壇に飾られているものなのです。そして、祖母の生前をおぼえている私の兄によれば、それは、祖母がなくなる以前には仏壇には置いていなかったのだとか。なので、祖母の形見なのかもしれません。それほど派手な色や模様をしているわけではなく、どちらかというと小さいものなのに、祖父の家に行って仏壇におまいりするたびに、気になっていたのでした。(そういえば、祖父は私たちのいたずらには比較的寛容だったのですが、いちど私が仏壇に登ってそれを取ろうとしたら、ひどく怒られました。)


 で、最近、『奄美諸島薩南諸島の民俗』という古ーい本 (私が研究しようとしている楼家島の宗教行事について言及しているほぼ唯一の文献。ほんのちょっと言及してるだけだけど) を読んでいたところ、どうやら楼家島では、「装身具に貝類や特徴的な形状をした魚類の意匠をほどこす」ことがある、らしい。なにか関係がありそうな気もするのですが、父方の家系はたしかに楼家島の出身なんだけど、それは祖父のおじいさんぐらいの代のことで、祖母もそうなのかは知らないのです。こんど帰ったときに聞くことができるかな。


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明日から ―2008年6月1日の日記より


 先週の日曜日に日本に一時帰国して、実家に帰ってきてました。明日から、楼家島(るいえしま)に事前調査にいってきます。といっても、実はいま荷造りしている真っ最中なんですが。


 鹿児島から楼家島への直通フェリーは出ていないので (悪石島とかには出てるんだけど)、明日午後6時鹿児島港発のフェリーで名瀬港(奄美大島)まで行って、そこからローカルの連絡船に乗り継ぎです。鹿児島ー名瀬のあいだは、夜行ですが、約11時間。アメリカー日本の飛行機並みだなあ。


 乗り物には強いはずだし、これまであまり船酔いとかもしたことなかったのですが、アメリカから帰ってきたときの飛行機で酔ってしまったので、ちょっと不安になって、はじめて酔い止め薬を買ってみました。お世話になるような事態にならないといいんだけど。


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さとがえり ―2008年6月13日の日記より


 博士論文の事前調査のほかにもうひとつ、楼家島に行った理由があったのだ。


 私には、6歳上の兄がいる。
 その兄は、去年の春に結婚した。
 しかし、私は義理の姉になったひとに、一度も会ったことがなかった。
 それについては、アメリカに行ったまま、なかなか里帰りもしなかった私もいけないのだけれども、結局ちゃんとした結婚式を挙げなかった兄のせいでも多少はあるとおもう。
 以前にも書いたように、私の父方の家系は、3、4代前まで楼家島に住んでいた。
 父方の祖母も、同じ島の出身だった。
 そして兄も、そのルーツをたどることに決めたらしかった。
 それも、やや極端ともいえる方法で。
 だから、私が楼家島を訪れたもうひとつの目的、というのは、4年ぶりに兄に会い、彼の結婚相手にも挨拶をしてくる、というものだった。


 楼家島の漁港と商業港は、島の北側、その名も楼家という土地にあるのだが、島の反対側には、印寿真瀬 (いんじゅませ) という、ちいさな集落がある。
 せまい入り江の奥の、砂浜に沿うようにしてつくられた漁村。
 ここには、島で田子ん様 (タゴンサマ) とよばれている神様をまつった、小規模な社があるのだ。
 田子ん様は、社につたわる古文書には人間と魚類の両方の特徴をそなえた身体を持っているように描かれており、豊漁の神だという。
 鹿児島本土や琉球諸島の伝承、信仰にもみられない、一種独特の神であるといわれている。


 私は田子ん様にお参りしたあと、集落の漁師のひとりに頼みこみ、手こぎの舟を出してもらった。
 兄の名をつげると、長年にわたって受けてきた海風と陽光が肌に深く刻み込まれているようなその老人は、すぐに了解してくれた。
 波は穏やかだった。
 入り江の中ほどまでこぎ出すと、老漁師は舟を動かすのをやめ、海にお神酒を振りまいた。
 それから二度ほど柏手を打つ。
 しばらくすると、いままで静かにゆらめいているだけだった海面に、やや大きめの泡がいくつか浮かんできた。
 それらにつづいて、すきとおった水の中を、ふたつの影が上昇してくる。
 そして、水音とともに、頭が二個、水面に突き出された。
 わずかに人間的な髪が残っているほうが、兄のもの。
 毛髪のない、ぬるりとした質感の頭頂部は、兄の結婚相手のもの。
 ふたりとも、はなれた、瞬きをしないちいさな丸い目で私を見ていた。
 私は船べりに座ったまま、挨拶をする。
 はじめまして。兄をよろしくお願いします。


 やがて、彼らはふたたび海中に没し、老人は舟を岸に向けてこぎはじめる。
 私は、ふたりがいたあたりの海面を、ずっとみつめ続けていた。


 すえながく、おしあわせに。



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