レッスン
ふたたび、Monsters v.s. Deep Ones の後日談です。(本編の登場人物が全員出てくるわけではないので、後日談というよりは外伝と呼んだほうが正しいかもしれませんが。)
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俺は、短くなってきた煙草を右手の親指と人差し指でつまんで唇の間から抜くと、胸一杯に溜め込んでいた煙を、斜め上に向けて吐き出した。
口を離れていった、白い、もやもやとした固まりは、暗くなりはじめたばかりの空に昇っていくわけでもなく、すぐに四散してしまう。
ベランダの手摺にもたれかかり、もう一度、煙草をくわえる。
近くにある商店街のアーケードで放送している音楽が、風に乗って聞こえてくる。
深みも技巧もなにもない、機械が出力しただけの平板な調べだ。
くだらない。
*****
いっしょに暮らしている翼のあるものたちのうちのひとりが、毎日、日が暮れて空が藍色に変わりはじめるころに起きて、出かけていく。
そのことに気づいたのは、つい最近のことだった。
彼ら彼女らは、特に太陽の光が苦手、というわけではないのだけれど、姿を見られることを嫌って、主に夜中に行動する。
住処にしているお堂のまわりの森で食料がみつからなかったときには、草木も眠るといわれる丑三つ時をみはからい、闇に紛れて、ふたり、三人と組をつくって飛び立ち、どこからか屍肉を調達してくる。
そんな生活リズムだったから、昼間はたいてい洞穴の中で寝ている。
日が落ちたばかりの、空にオレンジ色の光が残っているようなころあいは、彼ら彼女らにとっては、まだ早朝のような時間帯のはずだった。
それに、ひとりきりでねぐらを離れる、というのも珍しい。
どこに行ってるんだろう?
ほかのものたちに訊ねても、皆、首を横に振るばかりだった。
*****
俺は、まるで目的を見出すことができず、イライラを募らせるだけの毎日を過ごしていた。
こんなことになっているはずではなかった。2年ほど前までは。
5歳ではじめたヴァイオリン。
すぐに俺は「神童」と称えられるようになった。
コンクールに出場しだしてからは、優勝、また優勝の連続。
高校生のときに挑戦した国際大会では、さすがに一位というわけにはいかなかったが、審査員の何人かは高い評価をしていた、と、後から人づてに聞いた。
卒業後は、ヨーロッパの音楽院に進学することになっていた。
けれども。
高校の卒業まで、3ヶ月ほどに迫ったあの日。
首都圏には珍しく、年内であるのに、夕方から雪が降った。
滑って怪我をするといけない。濡れて風邪をひくといけない。そんなことを考えたのだろう。
夜、レッスンを終えた俺を、父が車で迎えに来た。
そうして、帰宅する途中。
見通しは決して悪くない、住宅街の中の、ゆるいカーブになった対面通行の道路だった。
父と俺が乗った車は、スリップして対向車線からはみ出してきたトラックに跳ね飛ばされ、ガードレールの支柱に突っ込んだ。
その事故で、父は帰らぬ人となった。
俺は、左腕前腕部の亀裂骨折だけで済んだ。
それだけのはずだった。
なのに、骨折が癒えてギプスが外れたとき、俺の左手は動かなくなっていた。
どんなに力を入れても、それぞれの指がわずかに曲がるだけ。手を握ることができない。
骨は完治している。
リハビリをすれば前のように戻る。筋肉をほぐしていけば治る。マッサージで血行をよくすれば。心理的な原因があるのではないか。
いろいろなことを言われ、いろいろなことを試したけれども、症状は改善しないままだった。
ヨーロッパ行きは、あきらめることになった。
当然、大学受験などはしていなかったので、高校を出た俺は、浪人生として予備校に通いだした。
だが、すっぱり気持ちを切りかえて受験勉強に集中する、というのは無理な話。
塾の先生と母が、俺が目標にするべき学校、学部の相談をしている傍らにいても、自分とは関係ない別世界のことが議論されているように感じるだけだった。
ほんのわずかの希望を抱いて継続していたリハビリも、効果が出ているようには思えない。
煙草の味を知ったのも、そのころだ。
最初は、予備校からの帰り道にある公園のベンチで、こっそり吸うだけだった。
やがて、母の目を盗んで、自室のベランダでも煙を吹かすようになった。
目を盗んで、といっても、同じ家の中でのこと。臭いや落ちている灰で、すぐに気づいたはずだ。
しかし、母は何も言わなかった。
1年が過ぎて、受けた大学すべてから不合格通知が届いた後、母は俺に告げた。
「母さん、赤向 (あかむ) に戻って仕事を探そうと思うの」
残って一人暮らしをして受験勉強をつづけてもいいし、赤向に着いてきてもいい。あなたが選びなさい。
行き詰まっていた俺は、環境が変わればどうにかなるのかもしれない、と、母と赤向に帰ることにした。
それは、正しい選択だったのだろうか。
母の故郷であるこの町には、本当に何もない。
小さな繁華街。フェリーターミナル。港の沖に浮かぶ、黒々とした色の火山島。目立つものといえば、それぐらい。
腕がよい、という評判の整形外科が山のほうの字 (あざ) に一軒ある、と祖母と母が聞き込んできてくれたので、検査や機能回復訓練を受けるために、数週間に一度はそこに通っているのだが、そのほかは、マンションの最上階にある自宅からもほとんど出ず、煙草を吸って、ただぼんやりと毎日を過ごしている。
そして、これではいけない、という思いだけがふくらんでいく。
*****
わたしは夕暮れの空を飛んでいた。
ほんのすこしだけ潮の香りがする風が正面から顔に当たり、髪をかきみだしていく。
翼のあるものの毛深い腕に抱えられて宙に浮く感覚は、長らく味わっていなかったものだった。
幼いころは、そうやってどこかに連れていってもらうことが、たびたびあったのだけれど。
お互いに昔とは体型も変わってしまっているせいか、はじめのうちは、わたしも、わたしを背後から抱いて吊り下げている体の大きな翼のあるものも、なかなか飛行を安定させることができなかったのだが、10分もするとコツがつかめてきて、ミニチュアのように見えるバスや学校の建物を眺める余裕も生まれてきた。
ただ、今日は、ひさかたぶりの空中散歩を楽しむのが目的ではなかった。
20メートルくらい前方の斜め下を、別の翼のあるもの――彼ら彼女らの基準でいうと、比較的背が高く、やせ形の一体だ――が飛んでいる。
わたしたちは彼を、ねぐらの森から追跡してきたのだ。
毎日、日も暮れきらないうちからひとりで出かける理由を探るために。
彼は、湾を目指してしばらく飛んだあとで進行方向を変えた。
高度を上げながら、赤向の中心街のほうにむかうようだった。
*****
どこからか、なじみの深い音色が流れてきて、俺は顔を上げた。
生のバイオリンの音だ。
細いその響きは、ときおり雑音に消されてしまい、そのせいもあって、どの曲のどの箇所を弾いているのかは判別できない。
だが、聞き取ることのできる部分だけを聴いているうちに、俺は、自分の心がざわついてくるのを感じた。
決して上手な演奏ではない。
曲にも、頻繁に調を無視した音階が混ざる。
けれども、その調べには、言葉にしがたいなにかが含まれていて、胸の中にすとん、と落ちてくるような、かとおもえば極限まで不安をかき立てられるような、そんな不思議な精神状態になるのだった。
もっと近くで聴きたい。
俺は聴覚に全神経を集中し、音の出どころを探ろうとした。
しかし、刻々と吹きかたの変わる夕方の風と下の道路の喧噪に惑わされ、演奏されている場所を特定することができないうちに曲は終わってしまった。
それから煙草を5本吸い切るまでベランダで粘ってみたけれど、その晩はもう、おなじ音色が聞こえてくることはなかった。
翌日の夕暮れどき。
俺は悪態をつきながらマンションの階段を上っていた。
字谷土 (あざたにつち) にある整形外科で、いつものようにリハビリを受けて帰ってくると、エレベーターに『故障中』の貼紙がされていたのだ。
最上階までの道のりは長い。
6階と7階の中間の踊り場で、俺は呼吸を整えるために立ち止まった。
半屋外になっている踊り場に吹いてくる風はまだまだ冷たいものだったけれど、日頃の運動不足もたたってか、額からは汗が吹き出している。
それを手の甲でぬぐい、あと3階半ぶんを上りきってしまおうと段に足をかけたそのときだ。
あれは。
俺は、耳をすまして聞き入った。
昨日のバイオリンの調べだ。
近い。
気づいたときには、俺はもう次の階にむかって駆け出していた。
音は、7階の南角の一室から流れてくるようだった。
その部屋の前に立つと、音量が一段と大きくなる。間違いない。
迷うことなく、俺は呼び鈴を押した。
演奏が止まる。
しばらくして、中で柔らかい足音がしたかと思うと、扉が開いた。
あらわれたのは、ひとりの少女だった。
バイオリンの弓を持った右手でドアを支え、不審そうな目を俺のほうにむけてくる。
少女は、やや栗色がかった髪を頭の上でふたつに結い、学校の制服なのだろう、白い長袖ワイシャツと、紺色のスカート、それに濃紺のハイソックスを身につけていた。肌が一見不健康にも思えるほど白く、髪の毛と同色の眉と瞳とあいまって、異国風の顔立ちのようでもある。
彼女の制服の胸ポケットのところには、開かれた本を月桂樹の葉の枠で囲んだ意匠の校章が暗い青色で印刷されていた。
一瞬の間考えて、それがどの学校のものであったのかを思い出す。
海坂徳育 (みさかとくいく) 高校。この町で一番歴史があるといわれている私立の女子校だ。
リハビリに通っている整形外科医のところのひとり娘がおなじ制服を着ているのを見たことがあり、記憶に残っていたのだった。
「なにかご用ですか」
固い声で少女に問われて、俺は、それまでの熱にうかされていたような状態から我に返った。
見知らぬ男が突然訪ねてきたのだ。警戒するのも無理はない。
俺は、彼女の左手に握られた楽器に視線を落とした。
うるさい、と苦情を言われると思ったのか、少女の表情がさらに曇る。
とっさに、俺はこう口走っていた。
「演奏を聴かせてくれないか」
「え?」
「あなたのバイオリンを、間近で聴いてみたいんです」
*****
追跡していた翼のあるものの影が、ヤマナミヤ百貨店のそばの10階建てくらいの高さのビル――おそらくマンションだ――の壁に沿って回りこんでいったあとで、消えた。
わたしたちは彼の姿を探すため、建物の屋上を見下ろせるくらいの高度を保ったままで周囲を旋回する。
すぐに、途中の階の角部屋のベランダに入りこんでいた彼の翼の生えた黒い背中を発見することができた。
ただし、飛びながらでは彼がなにをしているのかまではわからなかったし、長い時間滞空したまま観察しているわけにもいかない。
わたしは自分を運んでくれている翼のあるものに合図をして、すぐ隣にあるおなじくらいの高さのビルの給水塔の横に着陸してもらった。
着地点からほんのすこし移動するだけで、ちょうどベランダの中を覗きこむことができる位置が見つかった。
手摺や梯子が邪魔になって、あちら側からはこちらを見通されることもなさそうな、格好の場所だ。
もっとも、相手に発見されてしまう心配は無用であった。
彼は、注意を完全に部屋の中にむけているようだったからだ。
ベランダに面したサッシのむこうにはカーテンがおろされていて、わたしたちのいるところからは、その奥の様子を知ることはできなかった。
誰かが出てくるような気配もない。
わたしたちが追ってきた彼は、黒い胴体を丸めるようにしてベランダに横向きに座り、膝に顎をうずめるようにして、じっと動かずにいる。
いったい、何をしているのかな。
首をかしげたわたしの肩を、わたしを運んできてくれた翼のあるものが、ちょいちょい、とつつく。
わたしが顔をむけると、彼女は、自らの細長い指を、とがった黒い耳の根元あたりに当てるような仕草をした。
*****
両親が不在なので、家にあがってもらうわけにはいかないのですけれど。
そう言って少女は、玄関を入ってすぐの狭い廊下に立ったまま、曲をひとつ弾いた。
俺は、上がり框に腰を下ろして、それに耳をかたむけた。
よく練習に使われる曲で、芸術的でも、テクニックが優れているわけでもなかったが、そういうレベルの奏者なのだと考えれば、特に文句をつける箇所があるわけでもない、そんな演奏だった。
昨日、ベランダで聴いたものや、さきほど階段まで漏れてきていたものと比べると、むしろ技術的にはより完成されているともいえる。
だが、それらの調べにはあった、体の中に直接響いてくるようななにかが、その演奏には欠けていた。
「違う」
そう呟いた俺に、彼女は何度めかの不思議そうな眼差しをむけてくる。
「さっきまで弾いていた曲を、俺が階段のところで聴いた曲をやってくれませんか」
俺が言うと、彼女は驚いた顔になった。
あれは、楽譜もなにもなくて、遊びで適当に弾いていただけですから。
重ねて俺が頼んでも、彼女はそう答えて、首を横に振りつづける。
結局、目当てのものを聴くことはできないまま、俺は彼女の家を後にした。
廊下に出て、ふと閉じられたばかりのドアのほうを振りかえったとき、その横に掲げられている表札がはじめて目に入った。
表札には、漢字で一文字「張」とあり、その上にはローマ字で "Zhang" と書かれていた。
それが彼女の名字であるらしかった。
張 (チャン) さんは、香港の生まれ。
エーリカ、というのが彼女のファーストネーム。
そして、第一印象で、俺が彼女の外見を異国風と感じたのは、あながち的はずれでもなかったようである。
彼女の母親はドイツ人なのだ。
父親のほうは香港人だけれども、ビジネスの関係で、張さんが小学5年生のころから一家で日本に住んでいる。
これらのことを、俺は彼女の家に何度も通ううちに知った。
最初は、彼女も彼女の両親も、とまどいと警戒の混ざった目で俺のことを見ていたように思う。
けれども、俺がしばらく前までバイオリンをやっていたこと、音楽学校への進学も考えていたことなどを話すと、厳しい視線はやわらいでいった。
二度め以降の訪問は、必ず両親のどちらか (か両方とも) が家にいるときにしていたので、彼らとも親しく会話を交わせるようにもなった。
俺が体中から煙草の臭いを立てて部屋に入っていくと、彼女が厭そうな顔をすることにもあるとき気がつき、それからは、すくなくとも彼女のところへ行く直前だけは、煙草の本数を減らすように心がけることにした。
ちゃんとレッスンを受けていたのは中学の途中まで、そのあとは自己流でやっているだけ、というわりには、彼女は多様な曲を弾きこなすことができた。
だが、何回彼女のもとを訪れても、あの曲だけは、あの日俺がベランダで聴き、その翌日外階段のところで聴いた調べだけは、決して演奏してくれないのだ。
理由を訊ねても、ちゃんとした曲ではないから、と言われるだけだった。
*****
目をつぶって耳をすましてみると、ちいさなちいさな弦楽器の響きが聞こえてきているのがわかった。
たぶん、バイオリンの音なのだと思う。
ともすれば、町の喧噪に完全にかき消されてしまいそうな、か弱いものではあったけれど、糸を引くように伸び、春の海の穏やかな波のように寄せてはかえり、かえっては寄せる。
しばらくその流れに身を任せてから、目を開いてベランダのほうを見下ろすと、そこにしゃがみこんだ翼のあるものも、音に合わせて、黒い毛におおわれた体を揺らめかせているようだった。
やがて曲は途切れ、それからほんのすこしの間があったあと、ベランダに面した窓の奥に人影があらわれた。カーテンを脇に寄せ、サッシを大きく開けはなつ。
翼のあるものは、と視線をむけると、逃げようとする様子もなく、なにかに魅入られたかのように、その場にとどまっている。
見つかってしまう!
わたしは思わず手摺の上に身を乗り出した。
けれども、窓を開けた人物は、あきらかに彼の姿が目に入っているはずなのに、取り乱すこともなく、それどころか彼のいるほうへ一礼すると、手にしていた楽器を肩に乗せ、弓を構えた。
距離も離れているし、日の光もだんだん弱くなってきているせいで、顔までは、はっきり見てとることができなかったが、その人物は年若い少女のようだった。
白いワイシャツを着て、濃い色のスカートと長靴下をはいている。
わたしがなおも彼女のほうを凝視していると、突然、わたしを運んでくれた翼のあるものが、わたしの胸もとをを指さしてきた。
「どうしたの?」
訊ねてすぐに、彼女がなにを指摘しようとしたのか、わたしは気づく。
わたしは学校の制服のまま、ここまで連れてもらってきていた。
ブレザーの下には胸元に校章の入った白いワイシャツを着ていて、スカートは紺色、靴下は濃紺。
着ているものがいっしょだ、と彼女は言っているのだ。
それほど特徴のない制服ではあるけれど、もともと町に高校がすくないこともあって、まったく同一の組み合わせを採用しているところはひとつもなかったはずだ。
おなじ学校なのかな。
少女は弓を弦に当て、曲を弾きはじめる。
窓を開けたためか、さきほどよりもわずかに大きな音量で流れてきた調べは、前の曲とはうってかわって不安定なものであった。
音が急に高下したり、なめらかにつづいていたかと思ったら、突然途切れたり。
けれども、聴いていると、気持ちが動揺するのと同時に、おだやかな気分にもなれるようにも感じられる。
そして、旋律が高まってくると、ベランダにいる黒い影は演奏者のほうにむきなおり、感極まったように背中の翼を動かしながら、ふつうの人間には発することも知覚することもできない声で歌いはじめた。
彼の声とバイオリンの音色は、はじめのうちはバラバラなように聴こえたけれど、しだいに絡みあうようになり、そして、ついにはひとつに溶けあって、もうすっかり暗くなった赤向の空に流れてゆくのだった。
なるほどね。
*****
「弾いているあいだは絶対に入ってこないでください」
リビングのソファーに腰をかけた俺に強い口調で告げると、彼女は自分の寝室に入っていき、ドアをばたり、と閉める。
「えーりか」と刻まれた木彫りのネームプレートが扉の上で音を立てて揺れた。
今日は俺の誕生日だった。
そのことを話すと、彼女は、じゃあ、なにか曲をプレゼントしましょうか、と言った。
「なにがいいですか」
正直なところ、彼女が演奏する普通の曲の中に、特別聴きたいというほどのものはない。
それに、バイオリンは、俺にとって、もう、彼女のもとに通いつづけるための口実でしかなくなっていた。
君が弾いてくれるんだったら、なんでも。そう返事しようとして、ある可能性に思いあたり、俺は逆に彼女に問いかけた。
「どんな曲でも弾いてくれる?」
「私が弾ける曲だったら、どれでも」
だったら、あの曲がいい。俺がリクエストすると、彼女は困惑した表情になった。
「どの曲でもいいと言っただろう?」
でも、あの曲は。彼女は言葉に詰まる。
そのとき、部屋にさしこんできていた夕暮れの光が一瞬かげり、それに反応したのか、それとも無関係になのか、彼女は視線をそらして窓の外をちらりと見た。
そして、俺のほうにむきなおると、さらに困ったような顔をして、しかたがないですね、と答えた。
でも、そのかわり……。
「絶対に、入ってきたら駄目ですからね」
閉めたドアをもう一度細めに開けて、彼女は俺に念を押す。
俺はソファーの上から彼女にうなずきを返した。
数分後、演奏は唐突にはじまった。
導入も、主題も、つなぎもない混沌とした旋律。
拍子を完全に無視して長く伸び、短く切れる音。
調から外れて挿入される半音。
即興音楽の枠さえも超えた、破天荒な曲だった。
けれども、ただ無茶苦茶に弾いているのではない、という気にさせる、不思議な統一感がそこにはあった。
不安。安心。停滞。高揚。恍惚。覚醒。
とりどりの感覚と感情が一度に押し寄せてくる。
特にその中の一種の衝動が、自分の内部でむくむくと大きくなっていくのを俺は感じていた。
俺は立ち上がり、鼻息を荒くしてリビングをうろうろと歩きまわった。
そうしながら、腕を組み、頭を抱えこみ、両手を突き上げて呻き声を漏らした。
それでも、その気持ちがおさまることはなかった。
見たい。
この冒涜的な演奏をしている彼女の姿を。
どうしても、ひと目見たい。
気がつくと俺はネームプレートの下がったドアの前に立ち、ノブを握っていた。
幸いに、というべきか、不幸なことにというべきか、さきほどまでリビングにつづいたダイニングとキッチンで立ち働いていた彼女の母親はほかの部屋に行っているらしく、俺のその行為を咎める者は誰もいなかった。
彼女との約束を破るのか。
頭のどこかでちいさな声がささやいたけれど、俺の体はもう動いていた。
俺は、ノブを回し、扉を押し開けた。
その瞬間、耳に突き刺さった音は、バイオリンが高音を打った響きだったのか、あるいは彼女の声だったのか。
生臭い突風が俺の顔に吹きつけ、視界に入っている範囲のあらゆるところに黒い羽毛か獣毛のようなものが舞い散った。
巻き上げられた楽譜が、ばらばらの紙片になってつむじを描く。
そのただ中に立つ、バイオリンを構えた彼女の後ろ姿。ふだんきつく結っている長い髪が解け、宙をのたうつ。
彼女のむこう、開け放たれた窓のあたりから、漆黒の影が大きく広がる。そして……。
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いっしょに暮らしている翼のあるものたちの一体が、今日もねぐらを抜け出して、たそがれどきの空にひとり飛び立っていく。
わたしはお堂の前の崩れかけた段々に腰かけて、ちいさくなっていく黒い影を見送った。
(Monsters v.s. Deep Ones の本編/番外編のこれまでの更新ぶんはこちら。)
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というわけで、わかるかたには途中でバレていたとはおもいますが、『エーリカ・張 (チャン) の音楽』という駄洒落が言いたいだけの掌編、でした。おあとがよろしいようで。ありがとうございました。