Return of the Fly
『ハエ娘の恐怖』の最終話です。
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薄暗い部屋の中でぼんやりと佇んでいると、突然インターホンが連続して鳴らされた。ドアを開けると、僕の肩までくらいの身長の少女が立っている。大きなぶ厚い眼鏡とマスクをしていて、顔立ちはほとんどわからない。けれども、その華奢な体には見覚えがあるような気がした。そして、なによりも。
なによりも、彼女の甘ったるくて舌足らずな声は、耳に懐かしいものだった。
「人が毎日毎日来てたのに、どこ行ってたの?」
「毎日毎日って、いったいなにしに来てたんだ?」
とっさに口をついて出てきたのはそんな言葉で、自分でも失望する。もっと伝えるべきことがあるだろう。
「なにしに来たのかって、うまくいきました、っていう報告と、ご迷惑をおかけしました、っていう謝罪と……」
ハエ少女、いや、元ハエ少女は、そこまで言うと黙りこみ、下を向く。しばらくして彼女は、床を見つめたまま、こう続けた。
「それから、その、完全に元の姿に戻るためには、やっぱり王子さまのき、キスがいるかなっていう……」
はじめて抱き寄せた少女の肩は思っていたよりもさらに細く、骨ばっていた。体からか髪の毛からか、石鹸のいい香りがふんわり立ちのぼる。彼女の顔がぐん、と近づき……。
「マスクしたままでするのか?」
「あ、そうだった」
少女は鼻と口を覆うガーゼマスクに片手をあてる。けれども、マスクを外すわけではなく、かわりにこんなことを言った。
「ねえ。もし、この下が元の姿に戻りきってない箇所だったとしても、ちゃんと続きをしてくれる?」
黒い、先の細くなった口器が脳裏にフラッシュバックして、僕は思わず彼女の体を遠ざけていた。
「やっぱり、嫌だよね」
彼女はうつむき加減になって、僕の腕からすり抜けていく。
僕は情けない気持ちになった。そもそも、僕がよく知っているカエは、人間の顔のカエじゃないではないか。
大きく息を吸って、吐いてから、僕は彼女に両手をさしのべる。
「いいよ」
「ほんとう?」
彼女の表情がぱっと明るく……なったかどうかは、マスクと眼鏡のせいでわからなかったが、ともかく彼女は顔を上げ、僕の手の中に戻ってきた。
マスクを指でつまんで、そろそろと顎のあたりまで下げる。現れたのは、ややちいさめで突き出しているけれど、やわらかそうな薄紅色の唇だった。えへへ、冗談だよ。その口が、笑った形になる。
僕はあらためてカエの肩を抱いた。彼女はすこし背伸びして、僕はすこし腰をかがめて、唇を重ね……ようとして。
「まず鼻みずを拭いてくれないかな」
「あ、ご、ごめん。花粉症がひどくて。へぅ、ふぇっ……」
彼女は顔を横に向け、へぶしっ、と盛大なクシャミをした。
どこからか風に乗ってやってきた桜の花びらが一枚、ふわふわと舞い落ちてきて、彼女の前髪にとまった。
***
後日談1
「あれ? 理学部? 建築が第一志望って言ってなかった?」
「まあ、そうだったんだけど」
「変えたんだ」
「うん。……もし理学部行ったら、将来、その、手伝いくらいはできるようになるかな、と……」
「これから学部いくんじゃ、使いものになるまでに10年はかかるな」
後日談2
夕方、ふたりでコンビニまで買い物に行った。入店する直前で、カエが突然進路を変えて、ふらふらと横に歩きだす。そして、あるところで立ち止まり、壁の上のほうにむけて手を伸ばした。その先には、青白い光を放つ誘蛾灯。
「なにしてるんだ」
「はっ。光に誘われて、つい」
「もうハエじゃないだろう」
***
ウソ後日談
帰宅すると……空力効率のよさそうな黄色の頭部、ぴんと立った2本の触覚――スズメバチの顔が待ち受けていた。
「あ、おかえり。ちょっと行ってくるから」
ハエ少女、じゃなくてハチ少女が僕に言う。研究を進めた結果、どんな昆虫・節足動物とも自由に合体・分離できるようになったのだという。
そして、その装置を使って彼女はスーパーヒーローの仲間入りをすることにしたのだ。任務にあわせて適切な能力を得られるように合体し、現場にかけつけて地球の危機を救う。
「僕の部屋を拠点にしなくても」
「基地指令に任命してやっただろう」
「ていよく虫採りと飼育を押しつけただけじゃないか」
「任務完了ー。スコッティ、転送してくれ」
「お前、何歳だ」
「アメリカで理系の大学院行ってると、自然に覚えちゃうんだよね……」
「えーと、今回の任務の要求性能は、高い機動力、低い地上高でも行動できる能力、危険察知・回避能力、強靭な生命力……」
「ゴキブリ?」
「ついにその日が来たかー」
(おしまい)