ハエ娘の恐怖

(こちらにあったものと内容的にはおなじです。ちょっとうもれてきたので、記事を移動しました。まとめはこっちに追加していきます。)



 予備校から一人暮らしのアパートの部屋に帰った僕は、いつものようにカバンを床に放り投げ、ジーンズを脱いで部屋着のジャージに着替えようとし……たところで、窓を開けたままで外出していたことに気がついた。今朝、遅刻ギリギリで部屋を出ていったときに閉め忘れてしまったようだ。窓には網戸がはまっているから、完全に外に直結、というわけではないけれど、不用心なことに変わりはない。それに、その網戸にも、けっこう大きな穴がいくつか開いていて、油断していると蚊どころか、クモやコオロギの侵入までも許すことになる。外はもう日が暮れて涼しくなっていたので、僕は窓を閉じようとアルミのサッシに手をかけた。
 そのときだ。背後で、ぶぶぶぶぶん、と、薄い皮膜状のものが超高速で震える際に特有の音がした。網戸の穴から、ハエかなにかが入ってきていたらしい。僕は舌打ちをしながら振りかえり……そのまま硬直した。押し入れの襖の上から、ハエの複眼が僕のほうを見ていた。ただそれだけならどうということはない。けれども、そのふたつの赤みがかった眼 (眼の集合体ふたつ、というべきかもしれないが) は、それぞれが僕の頭の半分くらいの大きさだった! しかも、それらの眼がついた頭部は、人間の胴体 (背中にはハエのそれを巨大にしたような透き通った二枚の羽根が生えていたけれども) に乗っかっているのだ! そやつは、両手両足を広げて、押し入れの襖にはりついていた。そして、顔だけをかたむけて、僕を観察していた。
「あ、お邪魔してます」
 ハエが言った。本当に、喋ったのだ。顔つき (というのかどうか) に全く似つかわしくない、甘ったるくて少し舌足らずな、子供のような声だった。
「お、お、お邪魔してますって……」
 一歩、二歩とあとずさりしながら、僕の頭には、あるひとつの考えが生まれていた。
 これは、幻覚にちがいない。毎日勉強に追われていることによるストレス。浪人生の身でありながら両親の支援を受けて都会で一人暮らしをさせてもらっていることに対する罪悪感。そこまでして地元から追いかけてきた彼女に、大学でもっといい人をみつけたから、とあっさり振られてしまったことによる、気分の落ち込み。それらのせいで、いま僕は現実に存在しないものを見、発せられているはずのない声を聞いているのだ。
「あのね、物質転送装置の実験をしていたら、装置にハエが紛れ込んでいたみたいで、研究所外への転送後にこんな姿になっちゃって。この恰好でそのへんをうろつくわけにはいかないから、ちょっと入らせてもらったんだけど……」
 ハエ人間は話し続けていたけれども、僕はそれを無視して台所に行った。たぶん、襖にとまっているただのハエを誇大に知覚してしまっているのだ。それさえ退治すれば、この幻覚も消え去るだろう。僕は流しの下の開きに常備してある殺虫スプレーの缶を手にして押し入れの前に戻った。そのときにちらりと、まだ網戸のままになっている窓に目をやると、網に、もともとあった穴を起点にして無理矢理つくったような、人ひとりが通れるくらいの裂け目ができているような気がしたけれど、とりあえずそれについては意識から押し出しておくことにする。
「ねえねえ、聞いてる?」   
 僕は無言でスプレーのノズルを襖のほうに向けた。
「ちょ、ちょっと待って。話せばわかるよ。もっとちゃんと経緯を説明するから。元に戻る方法がわかったら、すぐに出ていくからっ」
 ハエ人間は僕の正面に (二足歩行で) やってきて、僕の顔を上目遣いに (といえばいいのだろうか、昆虫の複眼はどこを見ているのかよくわからない) 見上げ、両手をこすりあわせて拝むような仕草をした。こうして並んでみると背は意外とちいさくて、身長170センチの僕の肩にも届いていない。手足は華奢で、羽織っている白衣と、その下に着ているTシャツ越しにうかがえる胴体のラインも、胸が薄くて腰が細く、発育途上という感じだった。剥き出しになっている手や足、首筋まわりの肌は色白で、すべすべしていて柔らかそうだ。ただし、顔はもちろん、黒い短い毛がまばらに生え、赤っぽい色の一対の複眼や口吻が備わった、ハエのそれであった。表情も読みとることができない。
 スプレー缶を持った手を下げ、わかった、話してみろ、と返答しかけて、僕は思いとどまった。こんなことがあるわけがない。疲れているんだ。今朝は空腹のまま、駅まで猛ダッシュで自転車を漕いだことだし。
 すこし寝よう。そう決めて、僕は殺虫剤の缶をちゃぶ台に置き、万年敷いたままになっている布団にもぐりこんだ。
「あ、ねえちょっと、話を聞いてよ」
 まだ声がしていたけれど、僕は掛け布団を頭からかぶり、耳を両手でふさいで目を閉じた。疲れているだけなんだ。



(この先はついったーのほうに投稿したものをもとに適宜追加していきます。「続きを読む」をクリックで全文展開。)
***


 かすかな水音で僕は目を覚ました。窓の外は薄明るい。携帯電話を引き寄せて時刻を確認すると、朝の7時になるところだった。仮眠をとるつもりで、結局本格的に寝てしまったらしい。
 そして……。ひと晩たっても、ハエ人間はまだ部屋の中にいた。頭の上のほうから聞こえる、ちゃぷ、じゅる、というちいさな音は、そいつがちゃぶ台について、お椀に口吻を突っ込んでなにかを吸い上げている音だったのだ。起きあがって見てみると、お椀の中味は、お中元のおすそわけだから、とついこのあいだ実家から送ってきたばかりの乳酸飲料だった。ハエ人間は、それを原液のままで摂取している。
「あ、ごめんね。勝手にひとんちのものを飲み食いしたらいけないとは思ったんだけど、お腹がペコペコで、どうしようもなくて」
 僕の視線に気づいたハエ人間は、顔を上げてそう言った。
 僕は逃避することをあきらめて、そいつの言い分を聞くことにした。
「えっと、昨日も説明しようとしたんだけど……」


 ハエ人間……いや、ハエ少女の話を聞き終えた僕は、ちゃぶ台の前に座って頭をかかえた。
「押し掛け女房ってのは確かにお約束のパターンかもしれないけどさ。そういうのは、ふつう美少女マッドサイエンティストだったり、異世界の王女さまだったり、すくなくとも見た目はかわいい娘が来るもんだろ」
「それは心外だなあ」
 ハエ少女が不服そうに言う。
「私だって天才美少女なのに」
「どこが」
「名前でぐぐってみなよ」
「写真があるのか?」
「若干10歳にしてMITで学位を取得した美少女科学者として有名だからね」
 はたして、検索してみると、ハエ化する前の彼女の写真は簡単に見つかった。ちょっとクセのある黒髪を二本のお下げに結って、サイズの大きな白衣の袖をまくり上げて着ている姿は、かわいらしいと言えなくもないかもしれない。ただ、美少女かどうかの判断を下すのは困難だった。なぜなら……。
「防護ゴーグルかけてる写真ばっかりじゃねーか」
「あー、毎日ラボにいたからね」


***


 僕の意向などおかまいなしにハエ少女は部屋に居座ることに決めたようだった。そこで僕は……。


 二枚貝が少し口を開けたような形。縁には長い触毛が生えており、合わせ目の内側は真っ赤で、かすかに湿っている。そんな葉がいくつもついた植物の鉢植えを窓際に置く。予備校からの帰り、園芸店に寄って買ってきたのだ。
「それはハエトリソウだよね……」
 ハエ少女の呟きに答えは返さない。


 翌日。僕は帰宅するなり脚立を引っ張り出して、その日手に入れてきたものの設置にとりかかった。赤や緑、色とりどりのリボン状のそれらを、円筒形に巻かれた状態からほどき、天井からぶら下げていく。その様子を部屋の隅から見上げていたハエ少女が低い声で言った。
「今日はハエ取り紙……。イヤガラセでやってるでしょ」


***


 結局僕は、なしくずし的にハエ少女と同居することになってしまった。


「お風呂使ってもいい?」
「使うなと言っても勝手に入るんだろ」
「まあ、そうなんだけど。覗いちゃダメだからね」
「ハエ人間の裸を見て喜ぶ奴がいるか」
「胴体はもうすぐ12歳の女の子だよ」
「そっちに興味があるっていうのは、もっと問題あるだろう」


***


「服が欲しい、ってもな……」
「これしか持ってないんだよ。毎日着てたら汚くなっちゃう」
「でも、お前が買い物に行くわけにはいかないだろう。だからといって僕が女児用の服なんか買ってたら絶対に通報されるぞ」
「妹のなんです、って言えば」
「そこまでして僕がお前に協力する必要があるとは思わない」


***


 帰宅してうがい手洗いするために洗面所に入ったら、半開きになった浴室のドアのてっぺんにハンガーがふたつかかっていた。ちいさなサイズの女性用下着がそこに干してある。六畳間にいくと、ハエ少女はぶかぶかのTシャツを着て、畳にぺたりと座ってテレビをみていた。見覚えのあるバックプリント。僕の服を勝手に引っ張り出してきたのだろう。いつものことなので、文句を言わずにあきらめる。
 僕はカバンを置いたあと、冷蔵庫から麦茶を汲んできて、子供むけのアニメ番組にけらけら笑い声をあげているハエ少女の背後にコップを持ったまま立った。よく冷えた麦茶で喉をうるおしながら何気なく見下ろすと、Tシャツの裾から露出しているハエ少女の脚が目に入った。適度に弾力のありそうな太腿。白い肌。そのとき僕はふと、洗面所にランニングシャツと並んでさがっていたパンツのことを思い出してしまった。もしかして……。僕は口から噴出しそうになった麦茶をなんとか飲みこみ、頭を振ってその考えを追い出す。相手はハエだぞ?


***


 ハエ少女は、元の姿に戻る方法を探るため、と称して、僕の部屋にあるものを勝手に組み合わせて装置をつくり、実験を繰り返していた。けれども、その実験というのが常軌を逸したものばかりで……。

 
 帰宅すると……玄関のドアが吹っ飛んでいた。また、あいつの仕業に違いない。倒れているドアをまたいで部屋に入ると、黒コゲになった六畳間の真ん中にハエ少女が悄然と座っている。昨日は炊飯ジャーから発火。一昨日は冷蔵庫の中味が異空間に消えた。もう我慢も限界だった。それに、ここは借家だ。
 僕はのしのし歩いて、ハエ少女の背後に近づいた。
「あ、あの、何が起きたのかちゃんと説明するから」
 振りむいた彼女は、僕の顔を見上げて懇願するように言った。
「ちゃんと説明するから、だからまず、その手に握ったハエ叩きを置いて……」


 翌朝。
「ねえねえ」
「あのさ……」
「ねえ、聞いてる?」
「ねえってば!」
「私が虫だからって無視するんじゃない!」
「……。ごめん。ごめんなさい。昨日のこと、まだ怒ってるよね……」


「私、迷惑だよね」
 ハエ少女は、まだすこし黒く煤けている畳の上に正座して、顔を伏せて僕に言った。肩が小刻みに震えている。涙は流していないけれど (流れないのだろう) 泣いているように見えた。
「私は、元の姿に戻りたいだけなんだけど……」


***


 ハエ少女は、失敗にもめげず実験を繰り返すのだった。


 数学の問題と格闘する僕の後ろでハエ少女が実験装置の調整に飛びまわる。文字通り。ぶんぶん、ぶんぶん、羽音をたてて。
「集中できない! ハエ! ちょっと静かにしてろ」
「ハエ呼ばわりしないでよ。ちゃんと名前があるんだから」
「なんだっけ、名前」
「カエ」
「ハエ?」
「違う! か、え!」


「静かにしててほしいんだったら、捕まえてみなよ」
 憎まれ口をたたきながらハエ少女は僕の頭のまわりを旋回する。近くを通ったときを狙いすまして手を伸ばしてみるが、彼女は素早く方向転換してそれを避けてしまう。
「ミスターミヤギは箸でバシッと捕まえるのにな……」
「私はハエかっ!」
「ハエだろう」


***


 インターホンが鳴ったので出てみると宅配便の配達だった。ハンコを押して大きさのわりにずしりと重い段ボール箱を受け取る。宛て先は僕になっていたが、差出人欄にある英字の会社名は全く心当たりのないものだった。首をひねりながら六畳間に戻る。すると、あ、これこれ、と言いながらハエ少女が手を伸ばしてきた。
劣化ウラン。これが必要だったんだー」
「ちょっと待て。それ、どうやって注文した?」
「深夜のテレビショッピング。何でも売ってて便利だね」
「夜中になんかごそごそしてると思ったら、そんなことを」
「あ、ちなみに、君の名義で申し込んだから、銀行振り込みよろしくね。5万円くらいだから」
「なっ」


***


 僕がシャワーを浴びて出てくると、ハエ少女は装置の前で、べたりとうつぶせになっていた。寝息は聞こえない(立てない)けれど、背中がゆっくり上下しているのがわかる。このところ徹夜続きだったようだし疲れているのだろう。僕は毛布を取ってきて、羽が折れてしまわないようにそっと彼女にかぶせた。


***


そして、とうとう……。

「元の姿に戻る方法を見つけたよ」
「よかったじゃないか。どんな方法なんだ?」
「王子さまのキス!」
「……。僕がたとえ王子さまだったとしても、ハエとキスするのはごめんこうむりたい」


***


 実際のところ、実験はあまり思いどおりに進んでいないようで、僕のハエ少女との同居も長いものになってきた。


「そういえば、悪魔の王ベルゼブブはハエの姿で描かれるんだってな」
「そうだね。ハエは本当は偉いんだよ」
「でも悪魔だろ」
「我が前にひれ伏すがよい! 我が名はベブベブブ」
「ちゃんと名乗れてないぞ」
「平伏せよ。我が名はベブブ……」
「言えてない言えてない」


***


 早くも傾きはじめた秋の短い日が、部屋にななめに射し込んでいた。ハエ少女は、遅い昼食のラーメンをすする僕の横に座って、さっきからずっと両手をこすりあわせている。
「それは、もとからの癖なのか?」
「きれいにしておかないと味がわからなくなったりするからだよ」
「体も完全に人間てわけじゃないんだな」


***


 そんなある日、僕は風邪をひいてしまい……。


 夜中に目が覚めた。まだ頭がぼんやりする。ふと横を見ると、布団の端のところに軽く握られたちいさな手。ずっと枕もとにいてくれたのか。疲れて、そのまま突っ伏して眠ってしまったらしい。
 僕は彼女の手から腕に視線を這わせた。すべらかな肌に月の光が射して青白く輝いている。細い二の腕、上着の短い袖が少しずれてあらわになっている肩。白いうなじ。僕はそろそろと手を伸ばして彼女の寝顔に触れようとし……そこで我にかえった。まばらに毛の生えた頭部。睡眠中も閉じられることのない、赤みがかった巨大な複眼。額には二本のみじかい触覚があって、ときどきピクピクと動いている。


***


 ハエ少女の実験はようやく軌道に乗ってきた。どうすれば元の姿に戻れるのかも、そろそろ解明できそうだというが……。


 「風呂わいたぞ。先に入ったら」
 僕はこちらに背中をむけて実験装置の調整に没頭しているハエ少女に声をかけた。
「んー」
 生返事だけが返ってくる。白衣を着て手を動かし続ける彼女のうしろ姿をもうしばらく見ているうちに、僕は、心のどこかがちくりと痛くなるのを感じた。
「なあ」
 思わず僕は口にしていた。
「なあ、元の姿に戻れたら、カエはここから出ていってしまうんだよな」
「ん? いまなんか言った?」
「……。いや、ただ、風呂がわいたぞって」
「そうじゃなくて、ハエがどうとか」
「風呂がわいたぞハエ女、と言っただけだ」
「そっか」


***


 街にはクリスマス飾りが目立つようになってきたけれど、僕は浮かれた気分にはなれなかった。季節が流れた、ということは、受験シーズンがふたたび近づいてきたということでもあったからだ。


「なんだこれ。つまんない問題だなあ」
 インスタントコーヒーをいれて戻ってくると、僕が開きっぱなしにしていた数学の過去問題集をハエ少女が覗いていた。
「こうなって、こうなって」
 独り言を呟きながらさらさらと答えを書く。巻末の解答を見てみると正解だ。僕が1時間悩んで解けなかった問題なのに。


***


「はあ? なんでここが現在形でいいんだ?」
「動詞がsuggestとかrecommendでthat節が続いている場合は現在形になるんだよ。イギリス英語だと'that we should〜'みたいにshouldを入れることもあるけど」
「英語もできるんだな」
「あたりまえだのくらっかー」


***


 深夜。僕は部屋を暗くして電気スタンドの光だけで勉強を続けていた。寝ていたハエ少女がもぞもぞと起き出して、トイレに行って戻ってくる。そして、そのまま僕のほうに歩いてきて……ごちんっ、と電気スタンドに頭をぶつけた。
「いたー」
「大丈夫か?」
「つい光に誘われて……」
「ハエだなあ」


***


 そして、あっというまに年は明け、センター試験の日が近づいてきた。

 僕が参考書とにらめっこしていると、ハエ少女が傍らにきて、腰に手を当て、胸を反り返らせて僕に言う。
「我が名はベルゼブブ。魂を差し出して我と契約せよ。そうしたら、大学に合格させてやる」
「……」
「考え込むようなことかな?」
「お前が本物の悪魔の王だったらな」
「ずいぶん追い詰められてるなあ」
 じゃあ、契約書を作ろうか。がさがさとルーズリーフを一枚、袋から取り出しながらハエ少女は続ける。
「だから、お前と契約してもどうにもならないだろ。悪魔の王でも、悪魔の使いでもなくて、ただのハエ人間なんだし」
「えーと、甲は乙の願望を叶える。その代償として乙は甲に魂を売り……」
「売らないと言っているだろう」
「それは残念」


***


「これで、うまくいくんだな」
「うん。この装置で私は研究所に転送されて、転送が完了したときには元の姿に戻っているはずなんだ」
「……じゃあ、これでお別れになるのか」
「そんなにしんみりしないでよ。また遊びに来るからさ」
 そう言ってハエ少女は六畳間の真ん中にあるコタツの上に設置した円盤に乗った。
「えなじゃいず!」
 少女の号令にあわせて、指示されていたとおりにスイッチを入れる。壁ぎわに並んでいる機械のいくつかが青白い光を放ち、コタツに接続された何本もの電線が白熱する。そして、ぶぅーん、という振動音が高まってきたかと思うと、部屋の中央から激しい風が巻き起こった。
 しばらくして、僕は顔をかばっていた腕をそろそろと下げ、コタツのほうに目を向けた。そこには……ハエ少女の姿がまだあった。烈風の余波で白衣がはためいていることを除けば特に変化があったようにも見えない。
「おっかしいなー」
 首を傾げつつ円盤からぴょん、と飛び降り……。
「あっ」
 と言ったまま、彼女の動きが止まる。
「い、いま、こっち見てた?」
 白衣の裾を両手でおさえながら、ハエ少女は僕に聞く。見てない、と答えると、本当だね? と念を押される。
 なぜそんなことを、と不審に思いながらその場から動こうとしたとき、僕は自身にも異変が起きていたことを感じとった。ジーンズの裏地が、股のあたりの皮膚に、いつもよりも直接的に触れているような気がする。
 トイレに入り、ベルトとボタンを外してチャックを下ろす。予想していた通りの事態になっていた。因果関係からいっても理由はひとつしか考えられない。僕は、その、まあ、いろいろとはさまないように、注意深くジーンズをはきなおしてから、ハエ少女に抗議するため六畳間に戻った。
「範囲の設定も広すぎだったみたいで」
 気になるのか、白衣の上から自分のお尻のあたりをもじもじと触りながら、彼女は僕に説明するのだった。


 その日、日本国内某所で、空から数十枚のパンツが舞い落ちてくる、という怪現象が観測された。局所的な竜巻説、風船爆弾説など、さまざまな説明が試みられるが、原因は特定されないまま騒動は収束することになる。


 それからさらに数日後。
「これ」
 僕は、ハエ少女が座っているほうに紙袋を押しやった。
「お」
 中味を見た少女が、うれしそうな声をあげる。
「とうとう服買ってきてくれたんだね。通報される危険を冒して」
「いや、ネット通販だけど」
「ありがとう」
「集中しないといけない時期に、そんな恰好で毎日うろうろされたら困るからだ」


「君はこんなのが趣味なんだ。ふーん」
 試着の途中で風呂場から顔を出したハエ少女が言う。
「いや……ん? ちょっと待て。僕はそんなの注文してないぞ」
「冗談だよ。これは私が自分でネットで通販した」
「いつのまに?」
「あ、ちなみに、君の名義で買ったから、振り込みよろしくね」
「またかよ」


***


 そして、僕の第一志望校の試験日がやってきた。出かける僕を、ハエ少女は玄関の中で見送ってくれた。
「大丈夫。これまで私が教えたことを全部覚えてれば、余裕のよっちゃんだよ」
「その、覚えているかどうか、というのが問題なんだが……」


***


 合格発表を見に行って帰ってくると、ハエ少女はいなくなっていた。
 彼女が占拠していた部屋の一角に新しい装置が組まれていて、その前に一枚のメモ。
『この方法が最後の手段。成功でも失敗でも私はこの部屋から消えることになると思う。合格してるといいね。いや、してると思うから、こう書いておくね。おめでとう』


****


 実家から戻ってきて入った六畳間は、前よりもずっとからっぽに感じられた。4月から晴れて大学生になるというのに、僕の心はぽっかりと大きな穴が開いたようになってしまっていて、ちっとも楽しい気分になれなかった。家族や親戚、地元の友人が設けてくれた祝福の席にも、上の空で参加した。


  薄暗い部屋の中でぼんやりと佇んでいると、突然インターホンが連続して鳴らされた。ドアを開けると、僕の肩までくらいの身長の少女が立っている。大きなぶ厚い眼鏡とマスクをしていて、顔立ちはほとんどわからない。けれども、その華奢な体には見覚えがあるような気がした。そして、なによりも。
 なによりも、彼女の甘ったるくて舌足らずな声は、耳に懐かしいものだった。「人が毎日毎日来てたのに、どこ行ってたの?」


(つづき[最終話]はこちら)



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