ハエ娘の恐怖

数日前についったーでしたやりとりから妄想しました。ついったーに投稿しようとおもっていたのだけど、長くなってしまったので、この部分だけはこっちに置いておきます。


(10月8日追記: ちょっと下のほうに埋もれてきたので、本体をこっちに移動しました。)


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 予備校から一人暮らしのアパートの部屋に帰った僕は、いつものようにカバンを床に放り投げ、ジーンズを脱いで部屋着のジャージに着替えようとし……たところで、窓を開けたままで外出していたことに気がついた。今朝、遅刻ギリギリで部屋を出ていったときに閉め忘れてしまったようだ。窓には網戸がはまっているから、完全に外に直結、というわけではないけれど、不用心なことに変わりはない。それに、その網戸にも、けっこう大きな穴がいくつか開いていて、油断していると蚊どころか、クモやコオロギの侵入までも許すことになる。外はもう日が暮れて涼しくなっていたので、僕は窓を閉じようとアルミのサッシに手をかけた。
 そのときだ。背後で、ぶぶぶぶぶん、と、薄い皮膜状のものが超高速で震える際に特有の音がした。網戸の穴から、ハエかなにかが入ってきていたらしい。僕は舌打ちをしながら振りかえり……そのまま硬直した。押し入れの襖の上から、ハエの複眼が僕のほうを見ていた。ただそれだけならどうということはない。けれども、そのふたつの赤みがかった眼 (眼の集合体ふたつ、というべきかもしれないが) は、それぞれが僕の頭の半分くらいの大きさだった! しかも、それらの眼がついた頭部は、人間の胴体 (背中にはハエのそれを巨大にしたような透き通った二枚の羽根が生えていたけれども) に乗っかっているのだ! そやつは、両手両足を広げて、押し入れの襖にはりついていた。そして、顔だけをかたむけて、僕を観察していた。
「あ、お邪魔してます」
 ハエが言った。本当に、喋ったのだ。顔つき (というのかどうか) に全く似つかわしくない、甘ったるくて少し舌足らずな、子供のような声だった。
「お、お、お邪魔してますって……」
 一歩、二歩とあとずさりしながら、僕の頭には、あるひとつの考えが生まれていた。
 これは、幻覚にちがいない。毎日勉強に追われていることによるストレス。浪人生の身でありながら両親の支援を受けて都会で一人暮らしをさせてもらっていることに対する罪悪感。そこまでして地元から追いかけてきた彼女に、大学でもっといい人をみつけたから、とあっさり振られてしまったことによる、気分の落ち込み。それらのせいで、いま僕は現実に存在しないものを見、発せられているはずのない声を聞いているのだ。
「あのね、物質転送装置の実験をしていたら、装置にハエが紛れ込んでいたみたいで、研究所外への転送後にこんな姿になっちゃって。この恰好でそのへんをうろつくわけにはいかないから、ちょっと入らせてもらったんだけど……」
 ハエ人間は話し続けていたけれども、僕はそれを無視して台所に行った。たぶん、襖にとまっているただのハエを誇大に知覚してしまっているのだ。それさえ退治すれば、この幻覚も消え去るだろう。僕は流しの下の開きに常備してある殺虫スプレーの缶を手にして押し入れの前に戻った。そのときにちらりと、まだ網戸のままになっている窓に目をやると、網に、もともとあった穴を起点にして無理矢理つくったような、人ひとりが通れるくらいの裂け目ができているような気がしたけれど、とりあえずそれについては意識から押し出しておくことにする。
「ねえねえ、聞いてる?」   
 僕は無言でスプレーのノズルを襖のほうに向けた。
「ちょ、ちょっと待って。話せばわかるよ。もっとちゃんと経緯を説明するから。元に戻る方法がわかったら、すぐに出ていくからっ」
 ハエ人間は僕の正面に (二足歩行で) やってきて、僕の顔を上目遣いに (といえばいいのだろうか、昆虫の複眼はどこを見ているのかよくわからない) 見上げ、両手をこすりあわせて拝むような仕草をした。こうして並んでみると背は意外とちいさくて、身長170センチの僕の肩にも届いていない。手足は華奢で、羽織っている白衣と、その下に着ているTシャツ越しにうかがえる胴体のラインも、胸が薄くて腰が細く、発育途上という感じだった。剥き出しになっている手や足、首筋まわりの肌は色白で、すべすべしていて柔らかそうだ。ただし、顔はもちろん、黒い短い毛がまばらに生え、赤っぽい色の一対の複眼や口吻が備わった、ハエのそれであった。表情も読みとることができない。
 スプレー缶を持った手を下げ、わかった、話してみろ、と返答しかけて、僕は思いとどまった。こんなことがあるわけがない。疲れているんだ。今朝は空腹のまま、駅まで猛ダッシュで自転車を漕いだことだし。
 すこし寝よう。そう決めて、僕は殺虫剤の缶をちゃぶ台に置き、万年敷いたままになっている布団にもぐりこんだ。
「あ、ねえちょっと、話を聞いてよ」
 まだ声がしていたけれど、僕は掛け布団を頭からかぶり、耳を両手でふさいで目を閉じた。疲れているだけなんだ。


(つづきはこちらのエントリでまとめてます。)



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