ヘミングウェイと電報、あといろいろ

本題:

読んでた本 (学術書だけど) におもしろい箇所があったので、ちょっと長めではありますが、抜き書き。

... the telegraph eliminated the correspondent who provided letters that announced an event, described it in detail, and analyzed its substance, and replaced him with the stringer who supplied the bare facts. As words were expensive on the telegraph, it separated the observer from the writer. Not only did writing for the telegraph have to be condensed to save money - telegraphic, in other words - but also from the marginal notes and anecdotes of the stringer the story had to be reconstituted at the end of the telegraphic line, a process that reaches high art with the news magazines, the story divorced from the story teller.

But as every constraint is also an opportunity, the telegraph altered literary style. In a well-known story, "cablese" influenced Hemingway's style, helping him to pare his prose to the bone, dispossessed of every adornment. ... the lingo of the cable provided the underlying structure for one of the most influential literary styles of the twentieth century. (211)



[前略]...電報 [の出現] によって、事件を報告し、その内容を詳細に書き記し、そしてその事件のもつ意味を分析する、という仕事を一手にひきうける特派員は不必要な存在となった。代わりに、単純な事実だけを情報として供給する、パートタイムの地方通信員がつかわれるようになった。電報を利用して長い文章を送るには、高い料金がかかった。そのことが、事件の観察者と、事件の報道者との分離につながったのである。電報のために書かれる文章は、費用を節約するために、可能な限り簡潔である(あるいは、『電報的』である)必要があった。それだけでなく、ニュース記事の作製は、電信網の受信側で、地方通信員が書いた短いメモや逸話から、ストーリーを再構築する作業となった。この作業は、特にニュース雑誌の編集の現場において、高度な技術として完成された。ニュースという物語は、語り手を離れたところで語られるようになったのである。

 しかし、制約は常に新たな機会を創出するものである。電報は、新しい文章スタイルの出現を促した。「電報語」がヘミングウェイに影響を与え、彼が、修飾をなくし、ぎりぎりまで文章を削ぎ落とした散文スタイルを確立する一助となったことは、よく知られている。... [中略] ... 電信網でつかわれていた言葉が、20世紀でもっとも影響力のあった文学スタイルの基礎をかたちづくったのである。


(Carey, James W. (1992 [1989]) Communication as Culture: Essays on Media and Society. New York : Routledge: p. 211. 翻訳文、強調は筆者による。)


この前後をふくめ、文章そのものは、北米における電報網の拡大と、いわゆる「現代ジャーナリズム」の発生との関連性を論じた部分の一部で、電報の普及、それにともなう「通信社」の出現、それによる「客観的、中立的」報道の発明、といった、ジャーナリズムを論じるうえで重要そうな話題をあつかっているのですが*1、太字で強調したところも、技術と文体、文学スタイルは、ともに変遷していくものである、ということを示唆していて興味ぶかい。携帯メールの普及と、携帯メールに独特の言語文化、それに、いわゆる「ケータイ文学」の出現、(さらに、それが将来的に主流文学に与えるかもしれない影響)といったもののあいだの相互の関連性をかんがえる際にも役に立つかも。

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蛇足:

ところで、上記のような、「機械や技術が、人間の社会的、文化的行動に (ときに深い) 影響を与えている」という分析は、人文科学、社会科学では「技術決定論」(technological determinism) としてばっさり切り捨てられることもおおいのだけど、「(広い意味での) 科学、技術が現代社会の成立において果たした (果たしている) 役割」にふたたび目をむけることは、重要なことなのではないかともおもう。Bruno Latour もこう書いている。

Once [an anthropologist] has been sent into the field, even the most rationalist ethnographer is perfectly capable of bringing together in a single monograph the myths, ethnosciences, genealogies, political forms, techniques, religions, epics and rites of the people she [sic] is studying. ... In works produced by anthropologists abroad, you will not find a single trait that is not simultaneously real, social and narrated.


... what if we had never been modern? Comparative anthropology would then be possible.



現地におもむいた人類学者は、いかに理性論に傾倒した民族誌学者であったとしても、調査対象の人々の神話、エスノサイエンス、家系、政治の形態、技術、宗教、伝説、儀式などをひとつの文章にまとめることに何の苦労も感じないだろう。異国の地において人類学者によっておこなわれた研究では、常に事実、社会的なことがら、そして語られたことが同時に記録され、同一の扱いを受けている。


...[中略]... もし、私たちが、これまでいちども「現代化」などしたことがなかったのだとしたら、どうだろうか。そう考えたときはじめて、比較人類学という研究手法が可能になる。


(Latour, B. (1993) We Have Never been Modern, translated by Catherine Porter. Cambridge, MA: Harvard University Press: p.7 & p.10. 翻訳文は筆者による。)


「彼の地」で生活している「未開人」の研究をする際に、人類学者は、彼らの社会構造や文化が居住環境、技術、人間の生物学的制約といったものに強く影響されている、という分析をするけれど、「この地」で生活している「現代人」を研究する学者は、そのような分析を排除してしまう。なぜか? それは、「我々」が、自らのことを「現代化している」と思い込んでいるからである。けれども実際には、「現代人」の社会でも、社会構造や文化は、環境、技術、人間の生物学的特性といったものと複雑にからみあっている。だから、人文科学、社会科学は、「未開人」と「現代人」を隔てて考える誤った認識をあらため、「人間社会」と「(人間以外の)モノ」との密接な関係に注目するべきである。この本でLatour が主張しているのは、おおむねこのようなことだとおもいます。


もっと蛇足:

あと、Ursula K. Le Guin の "The Left Hand of Darkness" (「闇の左手」) も、Latour と (あと、もしかするとDona Haraway とかとも) 似たような視点を持っているようで私的にはおもしろいんだけど、最初の本題からずれてきたし、長くなるので、とりあえずこのあたりで終わりにします。「闇の左手」については、別の機会に書くかも。書かないかも。



(この先はプレイヤー発言ぽくなるので、隠しておきます。いちおう話題としてはつづいてます。)
もっともっと蛇足:


上記とすこし関連して、たとえば気候変動シミュレーション技術の発展と、「グローバルな視点」の発生の関係を論じた研究 (Elichirigoity, F. (1999) Planet Management: Limits to Growth, Computer Simulation, and the Emergence of Global Spaces. Evanston: Northwestern University Press.) というようなのもあるので、このときのエントリ (窓の外に気をつけてください - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記)) でちょっと触れたような感じで、「情報通信技術の発展とコズミック・ホラーの出現」みたいな論文を書いてみたい。いわゆる「文学批評」というのは、「社会的、文化的」な方面から攻めていくものだとおもうので、まだ開拓されていない方向性なのではないか、とおもってみたり。といっても、どうやって研究したらいいかわからないし、どういうところに発表したら受け入れてもらえるのかもよくわからないので、たぶん永遠にアイデア止まり。

*1:余談ではありますが、「報道の中立」というものがそれほど歴史の古いものではなく、非常に固有性のあるバックグラウンドからうまれてきた概念である、ということを知るのは、その概念そのものや「報道のありかた」を議論する上でとても大切なことだとおもいます。