To hunt in the morning, ... criticise after dinner, just as I have a mind, without ever becoming hunter, ... or critic

こちら(God & Golem, Inc.)と、こちら(2009-03-18 - 雪泥狼爪)のエントリに関係があるような、ないようなこと。コメントとして書くほどには関係していないような気もするので、(あと、長すぎるので) 捕捉してもらえないかもしれないけど、ここに書きます。


英語版Wikipediaの "Critique" の項目にある、以下の2カ所について。


1. Limitations and Validity of What?

Especially in philosophical contexts it is influenced by Kant's use of the term to mean a reflective examination of the validity and limits of a human capacity or of a set of philosophical claims and has been extended in modern philosophy to mean a systematic inquiry into the conditions and consequences of a concept, theory, discipline, or approach and an attempt to understand its limitations and validity.


Quoted from: http://en.wikipedia.org/wiki/Critique

これの最後のところにある、"its limitations and validity" の "its" が何を指しているのか、深く考えると、たしかによくわからなくなってくる (それはつまり、critiqueの対象になるのがコンセプトなのか、それともcritiqueという行為自体なのかわからん、ということにつながる) んですが、同項目の編集履歴をみてみると、2008年5月1日に書かれた最初のバージョンでは、対応する一文はこうなってます。

In this broadly political context, a critique is a systematic inquiry into the conditions and consequences of a concept or set of concepts, and an attempt to understand its limitations.


Quoted from: http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Critique&oldid=209399226

この文章では、"an attempt to understand its limitations" の "its" は、"a concept or set of concepts" を指している、と考えても、それほどヘンではないような気がします。で、現在の版は、この文章からふくらませていった結果である、と仮定すると、現在の版の "its" が指しているのも、"a concept, theory, discipline, or approach" の部分だということもできるのでは、とおもいます。
(現在の版では、指している部分が、"a concept, theory, discipline, or approach" と長くなっているので、"its" で受けるのがちょっとヘンにもおもえる [すくなくとも、私の英語力では] のですが、編集される課程で、改変されずに残されてきた結果だと考えれば納得がいきます。)


もちろん、オリジナルの文章を書いた人の意図はわかりませんし、後に編集を加えた人々によって、この "its" が repurposeされていたり、異なる意味で解釈された上で残された可能性というのはあるので、これが正しい、というようなことは絶対にありません。こういう読みかたもできるかな、というだけの話です。


あと、そういえば、こんなに一文、一語に集中して英文解釈をしたのは、ものすごく久しぶりのことのような気がします。いつもは流して読んでるからなあ。それではいけないときも本当はたくさんあるんですが。



2. "Strong" vs. "Weak"

Many philosophers prefer to distinguish such "weak" critiques (supported by arguments from induction, testimony, appeals to authority or to emotion, consensus, chain of improbabilities (e.g., Butterfly effect), or appeals to analogy) from "strong critiques" that rely only on deduction, mathematical proof, and formal logic.


Quoted from: http://en.wikipedia.org/wiki/Critique

これは、どちらかというと解釈に関係する議論ではなくて、単なるこの部分に対する感想なんですが、"[critiques] supported by arguments from induction, testimony, appeals to authority or to emotion, consensus, chain of improbabilities (e.g., Butterfly effect), or appeals to analogy" を "weak" critique と呼ばれることには反発を感じる学者もいるだろうな、とおもう。(似たような主旨のことを、こちら(God & Golem, Inc.)のコメントにも書かせていただきました。)


この感想のバックグラウンドになっているのは、以下の2点で、


1. (すくなくとも、米国の、社会科学を中心とした)アカデミアでは、「科学的アプローチ」と「人文的(非科学的)アプローチ」の対立、そして、「科学的アプローチ」偏重主義の台頭、というのは長いこと問題になっている命題のようです。(「科学的アプローチ」は、数学的、統計学的手法、システマティックな研究方法を尊重し、「人文的アプローチ」は、研究対象の複雑性を理解することを尊重します。なので、後者を用いる学者に、"weak" critiqueにあてはまる手法をつかう人が多く、「科学的」側からの批判対象にもなっている。) で、(アカデミアで支配的な立場を築いている)「科学的アプローチ」側から、常に批判され、軽視され、(ときには)ばかにされている立場の「人文的アプローチ」学者からしてみると、たとえ、この文章、コンテキストでの "strong"、"weak" のもつ意味、使用意図からは異なっているとしても、(どちらかというと感情的なリアクションとして)、"weak" と言われることに反発をおぼえるのではないか、ということ。


(あと、蛇足ではありますが、「アカデミアの構造」対「個人の技量」という対決構図になった場合、個人の技量で構造を打ち破るのは、なかなか難しいことだろうな、ともおもう。)


2. いわゆる「人文的アプローチ」の中でも、たとえば Marxism とか critical theory は "critical" であるとすんなり受け入れてもらえるけれど、Bruno Latour 的なアプローチ (どちらかというと、"chain of improbabilities" に頼っていると捉えられがち?) は、critical じゃない、意味がない、と言われることも多い。(それぞれを詳しく説明すると長くなりそうなので、完全な説明不足だとはおもいますが、ここで止めます。わかってくれそうな人を釣りあげる目的でもあります。笑)



この部分に対する解釈でも、私が一文、一語に注意を払って文章を読んでないことは、わかる人にはバレバレなんだろうな。


興味のない人にはどうでもいいような話でごめんなさい。