私の妹がそんなに繊細なわけがない

When, after infinities of chaos, the first men came, the Great Old Ones spoke to the sensitive among them by moulding their dreams; for only thus could Their language reach the fleshy minds of mammals.


(混沌に満たされた永遠のときが流れ、地上に最初の人類が出現したとき、偉大なる古きものたちは、彼らの中でも特に繊細な幾人かに、夢を操ることによって語りかけた。それが、古きものたちの言葉を、哺乳動物の肉体に捕われた精神に伝えることを可能にする唯一の方法だったのだ。)


―― H.P. Lovecraft, The Call of Cthulhu*1


 岩礁の上に乱立する塔やモノリス。ところどころに口を開けている、深淵につながっているかのような穴。深緑色のなめらかな素材で造形されたそれらには直線で構成された部分が一切なく、それどころか、まっすぐな円弧を描いているところも、線と線が直角に交わっているところも、面と面が並行にむかいあっているところもまったくなくて、じっとみているとめまいがしそうになる。


 大学の講義がおわって家に帰り、まずはじめに目に入ったのが、居間のコタツの上に鎮座しているその物体だった。縦、横、高さ、すべて10センチくらい。それほど大きくはないが、岩の表面や塔の壁面の模様から、モノリスに刻まれた謎の象形文字まで、非常に細かく細工がなされている。まわりに広げられた新聞紙の上には、そのために使ったらしい粘土べらや彫刻刀、削った割りばし、つまようじなどが乱雑にちらばっていた。おそらく、杏莉が、また油粘土で「作品」をつくっていたのだろう。


 私より5歳年下の杏莉は、幼稚園のころから粘土いじりが好きだった。好きこそものの上手なれ、というわけか、どんどん腕もあがっていって、絵も工作もへたくそで図工の時間が大嫌いだった私には、ちょっとうらやましい。以前は、つくるものといってもゾウだとかキリンだとか他愛のないものばかりだったけれども、中学にあがったころからおかしな形のものに凝るようになり、最近は深海魚だとか鼻行類だとか、奇妙な生物をかたどった作品を制作しては悦にいっている。ただ、今日のこれは、いままで彼女がつくったものと比べても、異彩をはなっているように感じられた。


「あ、姉ちゃん、おかえり。いま片づけようとおもってたとこなんだけど」
 背後からの声にふりかえると、杏莉が、道具箱――と彼女が呼んでいるクッキーの缶――を手に、居間に入ってくるところだった。
「これ、なに?」
 作品を指さしながら訊ねると、彼女は、
「別に、遊びでつくってて、すぐにつぶしちゃうつもりだったから……」
 と口ごもり、異形の都市を粘土板ごと抱えると、2階の自室に行ってしまった。


 ――夕食を食べながら家族全員でみていたテレビのニュースでは、首都圏に比較的近いところにある火山と、南のほうの島にある火山の両方で、活動が活発になっていると言っていた。


 油粘土でつくられた直方体の台座の上に、そいつは座していた。頭部は蛸の脚をおもわせる、吸盤をもった触手でおおわれ、顔面からは無数の触覚のようなものが生えている。折りたたまれた後脚の末端には鋭そうな鉤爪があって、二本の後脚のあいだにおろされた前足の先からも、研ぎすまされた鎌のような爪が伸びている。そして、背中には、細くて長い、蝙蝠の羽根にも似た翼。


 翌日、アルバイトから帰ってくると、コタツの上にあったのはそのような像だった。ちょうど階段をおりてくる軽い足音が聞こえてきたので、
「杏莉先生、昨日のといい、今日のといい、奇抜な作品ですな。新機軸ですか」
 と声をかけると、彼女はあわてたように居間にやってきて、
「これも、遊びでつくってただけだし」
 と言いながら、新聞紙ごと粘土の像を回収して、階段をかけあがっていった。


 ――その夜は、夜中を過ぎたころに数回、軽い地震があった。


 次の日帰宅したときには、コタツの上にはミカンと飲みかけの湯のみとテレビのリモコンが転がっているだけで、杏莉の作品はみあたらなかった。
「杏莉は?」
 台所にいた母に訊ねると、部屋で寝ているはずだという。学校で熱が出て、昼過ぎに早退してきたそうだ。それほど高い熱はなかったけれど、しんどそうだったから、風邪薬飲ませて寝かせた、と母は言った。
 2階に行って、彼女の寝室のドアをそっと開けてみると、彼女はたしかにベッドに入っていて、規則的な寝息が聞こえてくる。結局杏莉は夕食のときにも起きてこず、母が炊いたおかゆを自室で食べたようだった。


 その晩、深夜遅くまで本を読んでいた私は、隣の妹の部屋からなにか物音がするのに気がついた。自室を出て、「あんり」と書かれたプレートがさがっているドアのまえまで行ってみると、中から光が漏れている。すぐ先の部屋で寝ている両親を起こさないように、静かに扉を押して覗きこんでみると、杏莉が寝間着のまま、勉強机にむかっていた。
「寝てないとだめじゃない」
 声をかけても、彼女は集中しているのか、無視を決めこんでいるのか、こちらに気づいたそぶりをみせない。そこで、背中のすぐ後ろまで近づいて行き、手もとに目をやると、彼女は一心に、平らに延ばした粘土に彫刻らしきものをほどこしているのだった。
「杏莉」
 そう言いながら肩をたたくと、彼女はびくっと体を震わせて振りむいた。私のほうをみあげている彼女の顔は、発熱のせいか紅潮していて、額には汗がにじみ、瞳には涙がうるうると溜まっている。
「姉ちゃん」
 ぼんやりとした口調で、杏莉はつぶやいた。いつもだったら、勝手に入ってこないでよ、という非難がつづくところだが、今日はそうではなかった。
「夢をみたのね。夢にこれが出てきて、いますぐにつくらないと忘れちゃうから……」
 まだ夢の中にいるような様子で、彼女は言った。
「熱、さがってないんでしょ。寝ないとよくならないし。治ってからつくればいいじゃない」
 私の言葉にうなずいたものの、杏莉は魂が抜けたような表情で椅子に座っているままだった。私は洗面所に行って温かい濡れタオルをつくり、彼女の手を拭った。それから彼女を椅子から立たせて、ベッドにつれていった。掛布団をしっかりかぶらせてから額に手をあてると、やはり、まだ熱があるようだった。
「夢に出てきたの。あの町も、あの怪獣も。毎日夢にみるの……」
 杏莉はしばらく、幼児に返ったような言葉づかいで、うわごとのようにぶつぶつと喋りつづけていたが、やがて、静かに寝息をたてはじめた。
 私はため息をついて自室にもどり、自分の寝支度をすることにした。


 ――翌朝、家を出るまえにテレビのニュースをみていると、ニュージーランド近くの南太平洋で嵐が起き、日本船籍の漁船を含む数隻が救援をもとめている、と報じていた。


「学校終わったら、すぐ帰ってきてやって。お母さん、午後は仕事だから。今日はバイトないんでしょ」
 出がけに母からそう言われていたので、しかたなく昼過ぎに家に帰る。杏莉は、まだ学校を休んでいた。自分の部屋に荷物を置いて彼女のところに行くと、彼女はおでこに冷えぴたシートを貼って、すやすやと寝ていた。しばらくのあいだ、ベッドの横に座って様子をみていたが、特に苦しそうでもないし、起きる気配もない。別に面倒をみる必要もなさそうなので、とりあえずなにかほかのことでもしていようと立ち上がり、部屋を出ようとしたところでふとおもいだして、勉強机のところに寄ってみた。
 粘土の板は、昨晩杏莉が作業を止めたままの状態で、机の上に置かれていた。どうやら、なにかを浮き彫りにしたものを中央に配し、その周囲に文字のようなものを刻もうとしていたらしい。そして、中心にある造形をみているうちに、私はそれが親しみのある形状をしていることに気がついた。触手の生えた頭部、長い爪のある足、背中の翼。一昨日に杏莉がつくった像がかたどっていた生物にそっくりなのだ。まわりを飾っている文字は、象形文字なのだろうか、世界で使われているどんな文字とも異なる、不可思議な形をしていた。


 ――杏莉が寝ているあいだは暇だったので、1階におりていき、居間のパソコンでインターネットをしていた。高校時代からの友だちの、パソコンで絵を描いたりしている子のブログを読んでみると、ここ数日、「タコ神」の絵がブーム! などと書いてある。例として紹介されていたリンクをいくつかクリックしてみると、筆致はそれぞれちがうものの、どこかでみたことのあるような主題の絵が表示された。杏莉の「作品」のモチーフになっていた、異形の都市と、異形の怪物。


 その次の日の早朝。私は、うなり声のようなものが聞こえてくるのに気づいて、目を覚ました。起き出して杏莉の部屋に行ってみると、彼女が苦悶の表情をうかべて、ベッドの上で転げ回っている。あわてて近寄って、額に手をあててみると、熱はそれほどないようだったけれども、汗をびっしょりかいていた。そのうちに、うめき声がだんだん大きくなり、痙攣をおこしたように、体が2度、3度と跳ね上がる。
「大丈夫? お父さんお母さん、起こしてくる?」
 ベッドに腰かけて抱きよせると、杏莉は私の首に両腕を絡みつかせてきたけれども、問いかけには首を横に振る。彼女は数分のあいだ荒い呼吸をしていたが、やがて、んぐっ、というような声を何回かたてたあとで静かになり、私の胸に顔をうずめた。しばらくして、細い泣き声と、鼻をすすりあげる音が聞こえてくる。私は、どうしたらいいのかわからずに、彼女の背中をさすりつづけた。


 夕方、私が帰ってくると、杏莉は居間のコタツに足だけ入れて寝転がり、携帯ゲーム機で遊んでいた。念のために学校は休んだものの、もう熱もさがって、すっかり元気だという。
「一日中家にいたら、暇だった」
 などと言っている。
「あの彫刻のつづきはやらないの?」
 と訊ねると、え、なんのこと、と、とぼけた答えがかえってきた。


 ――『そういえば、ウチの妹も、なんか変な粘土細工してたよ。夢に出てきた、とか言ってたけど』
 「タコ神」の絵のことをブログに書いていた友だちにメールを送った。
 『まじで! あの絵描いてる絵師さんたちも、夢にみたって言ってる人が多いんだって』
 という返信がきたあとで、さらにもう一通、こんなメールが入っていた。
 『どっかの神話かなんかによると、眠りについた古代の神が復活しそうになるときに、夢をとおして語りかけてくるらしいよ。芸術家とか、繊細な人が影響されやすいんだって!』


 まさかね。

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この話、下敷きにしているのは、もちろんラブクラフト御大の "The Call of Cthulhu" ですが、実質的な部分は、id:yukioino様 (「リトル・リトル・クトゥルー」の挿画作製者でもあられます) の「ねりけしおーるどわんず」の数々と、id:servitors様の紹介記事 (ねりけしおーるどわんず - クトゥルー/クトゥルフ神話作品発掘記) をみているうちにおもいつきました。(先日にひきつづき、唐突にネタにしてしまって申しわけありません。NGな領域に入ってしまっているようでしたら、削除/改変させていただきますので、ご指摘ください。)

*1:出典: "The Call of Cthulhu and Other Weird Stories," H. P. Lovecraft, (ed. by S. T. Joshi), Penguin Books, 1999: 翻訳文は筆者による