飛翔賞

飛翔賞というものに投稿してみた作品。ちょっと空気を読めてない投稿になってしまったようで、申しわけなかったです。

(「続きを読む」をクリックで展開。ちなみに、ここでふだん書いているものとはかなり方向性ちがいます。すみません。あと、飛翔賞関連のページから、投稿した話のようなものを期待してここに飛んでこられた方がいらっしゃいましたら、そちらにもごめんなさい。)


 その店は間口が狭く、そのくせ奥行きが妙に長い、ウナギの寝床のような形をしていて、そこだけピカピカに磨き上げられたガラスの扉を押して中に入ると、丸テーブルが五つ左側の壁にへばりつくように置かれていた。客席はそれだけで、『ラ・ペニソラ』というイタリア風の名前がついているものの気の利いたイタリア料理を出すわけではなく、飲み物のメニューはブレンドコーヒーと、ティーバッグがそのまま入ってくる紅茶と、パックから注いだだけのようなオレンジジュースだけだったからカフェというわけでもなく、かといってできる食事が、量だけがとりえの炊飯器で炊き込んだピラフと、これまた量だけは多い、ドリアとは名ばかりのピラフにホワイトソースがかかっただけのものと、主人の気まぐれでその日のうちでも具が違うことがある日替わりパスタだけではレストランとも呼び難かった。パスタを出すところだけがイタリア風といえないこともない。
 しかしこんな店だったけれども、というより、だったからこそ、紅茶には飲み終わるころには腹がちゃぷちゃぷ音を立てるぐらいたっぷりのお湯がポットに入ってついてきたし、ピラフやドリアは、安いうえにただで大盛りにしてもらえたから、日がな一日お茶でも飲んでぼんやりしていたい老人や近所に下宿している貧乏学生、といった常連がいて、そのおかげでどうにかつぶれないで続いている。
 常連客たちのもうひとつのお目当ては看板娘のフユちゃんで、彼女が桃色やひよこ色の服を着て立ち働いていると、月並な言いかただけれども、薄暗い店内でそこだけ花が咲いたようになる。フユちゃんは十六、七歳で、主人の姪っ子ということだった。
 さて。
 その機械は、店の右すみのキャッシュレジスターのかたわらにかなり大きな場所を占めており、レジスターの前に立つためにはそこのうしろを体を横にして摺り抜けなければならなくて、細身のフユちゃんはともかく、でっぷりと腹が突き出した主人のミサキ氏は半身を入れることさえままならず、反対側から操作をするはめになっていたのだが、光もあまりさしこまないすみっこにあり、なおかつ表面が長年かけて降り積もったほこりで輝きをまったく失っていたから、その存在に気づいている客はほとんどいないようであった。
「それ、エスプレッソ・マシーンだろう」
 客のひとりがそう言ったのはある昼下がりのことだった。
 ほとんど毎日店にやってくる男の客で、言葉遣いや着ている服から判断すると学生のようなのだけれども、夕食だけを食べにくるときもあれば、平日でも昼どきにやってきてコーヒー一杯で長々と粘っていくときもあり、何を職業としているのかはっきりとはわからない。入口からふたつ目のテーブルの奥よりの椅子が定位置で、たまに、考えごとでもあるのか、肘をついて手にあごをのせて遠くを眺めるようにしていることがあり、そうしているときの顔はひどく年をとっているようにも見えて、だから本当の年齢もよくわからなかった。
 その日はちょうど昼食めあての客足が途絶えたころにふらりと入ってきて、注文を取りにきたフユちゃんにそう聞いたのだった。
エスプレッソ・マシーン?」
 フユちゃんが訊ね返すと、
「あの、すみっこにある機械さ。使っていないの?」
「ああ。あれは、こわれているんだそうです」
 もし使っていないなら引きとっていって直してみてもいいだろうか、と男が言うと、あれはもともと前にここを借りていたひとが残していったもので、こわれている上に使いかたもよくわからないから、あげちゃってもいいよ、というミサキ氏の答えで、それならと男は大盛りのピラフを注文して平らげたあと、どこからか借りてきた自転車の荷台にマシーンをくくりつけ、ふらふら走って帰っていった。


 『ラ・ペニソラ』から歩いて十分くらいのところに、れんが造りの三階建てのアパートメントがあって、門のところに掲げられている木の看板に目をこらせば『わかば荘』と読めるのだが、築何年かもわからない、雨に黒ずんだ外壁からその名前を連想することは難しく、前庭にたわわに実をつける巨大なみかんの木があることから、近所では『みかん屋敷』と呼ばれていた。そこの屋根裏に住んでいるから、修理しているところを見たかったら来てもいいよ、と帰りぎわに男が言ったから、お店が休みの日曜日ごと、フユちゃんは部屋を訪れるようになった。
 修理ははじめ順調だったけれども、特別な部品を外国の製造元に注文しなくてはならないことがわかり、ここのところストップしていた。
 今日、そろそろ部品も届くころかとフユちゃんが訪ねてみると、男は留守だった。
 『みかん屋敷』の屋根裏はふた部屋だけあって、ほとんど垂直に近い急な階段を登りきった先の左右にドアが並んでいる。左に「アルベルト・ワタリ」、右には「シド」とだけ書かれた表札が貼ってあり、はじめて来たときには名前を知らなかったから、フユちゃんはずいぶん困ったものだけれども、右が男の部屋である。今日はどちらの部屋の扉も閉まっていて、そのかわり天井に開いている窓にむけてはしごが立てかけてあり、天気のいい日には屋根で寝っころがっていることもあるよ、という男の言葉を思い出してそこを登ってみると、天窓から顔を出したフユちゃんに気づいて読んでいた本から視線を上げたのは、別の男だった。
 その男は長めの髪を七三に分けて、うっすらと無精ひげを生やし、すこし老けているようにも見えたけれど、肌の張りや目の色からするとシドと大差ない歳のよう、手にしているのは、革で装丁されたぶあつい本である。
 男は座ったまま、フユちゃんははしご段のいちばん上につかまったまま、ふたりしばらく黙って見つめあっていたけれども、
「ミサキさん、ですか?」
 先に口を開いたのは男のほうだった。
「はい。そうですけど」
 フユちゃんが、不思議そうな顔をすると、
「シドから、よく話を聞きます」
「あ、じゃあ、あなたが、『教授』?」
「そうそう。シドから聞きましたか」
 そう言って、笑う。すなわち彼は、アルベルト・ワタリと表札を掲げている、シドのとなりの部屋の住人で、あだ名を『教授』というのはいつも歴史書ばかり読んでいるかららしい。
「奴はいま出かけてるから。ここでいいなら待っていますか」
「そうします」
 フユちゃんが天窓を隔てて屋根に座ると、『教授』はふたたび本に目を落とし、フユちゃんはしばらくもぞもぞしたあとで、青い空の上で雲がふわふわかたちを変えながら流れていくのを眺めることにした。
「あそこを飛べたらな、って思うことが、よくあるんです」
 『教授』がそう言ったのはずいぶん時間が経ってからのことだった。フユちゃんがふり向くと、
「僕は、魔法使いになりたかった。魔法使いになって、空を飛んでみたかったんです。実際は、いくら魔法を使っても、できないことなんだそうですが」
 彼は、はずかしそうな、ひかえめな笑顔をうかべる。
「でも、魔法には、そんな夢を見させてくれるちからがあるような気がします」
 フユちゃんがにっこり笑うと、『教授』はさらに続けて、
「シドは魔法使いなんですよ。彼に言わせると、魔法使いには夢はないらしい。でも、やっぱりうらやましく感じます」
「夢、かぁ」
 フユちゃんは立ち上がり、ゆっくり両手をひろげた。目を閉じる。やわらかい風が、髪や袖口、スカートの裾に触れていく。腕を持ちあげる。そろそろと。風を抱くように。
 そして。
 身を乗り出して、目を丸くしている『教授』の前で、フユちゃんは屋根の上から一インチほどの空中に浮かんだ。
 ややあって、ぱっと目を開いて屋根に降り立ったフユちゃんは、『教授』の視線に気づくと、頬を赤くした。
「私はこれくらいしか飛べないけれど、空は飛べないわけじゃないんです。私よりしっかり修行をつんだ魔法使いはいっぱいいるし、そういう人の誰かはきっと、あの雲があるあたりも飛べるんじゃないかな」


 シドはそれからほどなくして帰ってきて、天窓から顔を出すとフユちゃんにむかって、
「お、来てたんだ」
と言い、手にした小包の箱を見せると、これでやっと修理が終わるよ、と、微笑んだ。注文した部品が届いていたのを郵便局まで取りに行っていたのだと言う。
 フユちゃんが部屋に入ると、エスプレッソ・マシーンはぴかぴかに磨き上げられ、店にあった頃とは見違えるほどである。シドはさっそく荷物をほどき、何重にも重ねられた緩衝材をどかすのももどかしく交換部品を取り出すと、機械の裏ぶたを開けてがちゃがちゃとやり、それで修理は完了らしかった。
 もう前もって用意していたらしく、コーヒー粉やらカップやらが取り出され、あっという間に準備が整う。
 フユちゃんの好奇心いっぱいの視線をうけながら、シドは小ぶりのマグカップを銀色に光るノズルの下に設置すると、うやうやしくスウィッチをひねった。
 ぶしゅう、と、豪快に湯気が上がり、ノズルから液体が放出される。
「わぁ。こんなふうになるんだ」
「子供のころ、これと同じような機械が祖母の家にあってね」
 カップを渡しながらシドが言う。
「小さかったから、コーヒーは飲ませてもらえなかったけれど、祖母がこの機械を使っているのを見るのは、好きだった。雲のように湯気が噴き出して、エスプレッソが出てくる」
 もう一杯、自分のために淹れたほうに口をつけて、しばらく味を楽しむようにしてから、
「あれは、魔法のようだったなあ」
「魔法……」
 フユちゃんも渡されたカップからひとくち飲んでみたけれども、どうも苦すぎるようだったので、砂糖つぼからスプーンに一杯、砂糖を入れてかきまわす。
「今となっては、もう、魔法ではないけれどもね。仕組みがわかってしまったから。なんで、蒸気が出るのか。どうすれば、コーヒーができるのか。全部知っているから、何も不思議なことはない」
 カップの中身をぐっと一息に飲み干して、
「どうなっているかわからないから魔法だったんだ。不思議なものだったから、夢があった。そうしてみると、魔法使いというのはおかしなものだよ。魔法を使うために、魔法の仕組みを勉強するんだから。自分が使う魔法がなぜそのように働くか、全て知っている。魔法でなにができて、なにができないか、全部わかっている。自分にとっては、全く不思議なものではないんだ。だから、魔法使いにとっての魔法は魔法じゃない」
 それを聞いてフユちゃんは、くすり、と笑い、シドは彼女のほうをいぶかしげに見る。
「なにか、おかしいかな」
「さっき、屋根の上で、『教授』と空を飛ぶ話をしました」
「あいつは、いつもその話を持ち出すな。魔法には夢がある、とでも言ったんだろう」
「魔法で空は、飛べませんか」
「飛べないことはないだろう。屋内での浮遊術は確立された魔法だ。真剣に飛行術を研究した魔法使いは何人もいたし、酒に酔ったいきおいで空を飛ぼうとした奴らもいた。けれども、彼らのほぼ全員が、地面に叩きつけられて命を失った。風向き、急な気流の変化、空中の障害物、気象、温度、気圧。屋外で飛行するには、コントロールしなければならないことが多すぎて、手におえない」
 そう言いながら、シドがもういちどカップをノズルの下に置き、抽出の準備をはじめようとするのを、フユちゃんが、
「あ、私にやらせてください」
と、押しとどめ、シドの教えを請うて水を入れ、粉を入れ、
「これを押すんですよね」
 スウィッチをまわすと、しゅうっ、と、蒸気がわきあがる。
 それがおもしろくて、飲んでは淹れて、淹れては飲んで、かわるがわる、ふたりで何度も繰り返した。
 いいかげん口の中に苦みばかりが残るようになったけれども、エスプレッソはちっともまずくなかった。


「何でだろう。君がエスプレッソを淹れているときは、魔法を見ているような気になる」
 さすがにはしゃぎ疲れて、窓際の椅子にふたり腰かけているときに、シドが言った。
 フユちゃんは、笑った。
「だって、私も魔法使いだからね」