私の主張

ひとつ、声を大にして主張したいことがあります。


それは、アメリカのビールは薄くない! ということ。


アメリカに滞在中の日本人と話をすると、「アメリカのビールはまずいよね」と言われることがわりとあるのです。たしかに、大量生産、大量消費マーケットで流通しているバドxイザーとかミxーとかはシャブシャブですけど、「アメリカのビール」というのはそれがすべてではないわけで。アメリカには各地においしい(日本のビールよりも濃い)地ビールをつくっているmicro brew(小規模ブルワリー)があるし、全国流通してる中にも、Sam Adamsのように比較的おいしいやつがあります。(別に、Sam Adamsの地元が近くのボストンだからひいきしているわけではないですよ。)あと、これは土地によるかもしれませんが、ビールの本場でもあるドイツやベルギー、イングランドアイルランドなどからの輸入ビールも、日本よりも種類が豊富にあるし、値段も安く手に入る。ビール好きにしてみたら、日本よりもよい環境だとおもうのです。


固定観念からくる選択的な観察(「アメリカのビールといえばバxワイザーだからバxワイザーを飲もう」)、それに依拠した過大な一般化(「バドワxザーがまずいからアメリカのビールは全部まずい」)などは、非学術的、非文化人類学的な観察の特徴的な問題点としてよく指摘されるものです。そして、ビールにかぎらず、ほかの事象に関しても似たようなことがよく起こることをかんがえると、数年をかけて他者観察をするための方法論のトレーニングを受けた人間が、1年、2年といった長い期間を他者の間に混じって観察をおこなう、という文化人類学の手法は、あながち無駄なものではないのだな、と感じます。(これは、このエントリのときにも書きたかったんだけど、うまく話がつなげられなかった。)


もっとも、文化人類学的手法が非学術的な手法にくらべて、優れた「異文化理解能力」を提供するか、というと、それはそういうわけではない。学術的な手法は「真実に迫るためのよりよい方法」である、と理解されていた時代もあったけど、いまはそのような教育はうけません。ただ、文化人類学的手法は、自分が観察、理解していないもの、自分には観察、理解できないものがある、ということを、内省的に自覚するための方法を与えてくれる、という点で、やっぱり優れているとおもう。こういった議論に興味のない人にしてみれば、どうでもいいことかもしれませんが、これはおおきな違いだと私はおもいます。


ちなみに、私はけっこうお酒飲めるし、好きです。これに関しては、「意外」と言われるのと(外見とかふだんの言動から想像しにくい、ということ?)、「やっぱり」と言われるの(鹿児島出身だから?)が半々ぐらいだったりします。