ニシちゃん・2

まず、この話(ニシちゃん・1 - アーカムなう。 (ミスカトニック大学留学日記))のつづきから。

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2週間ほど前、私たちのアパートの上階に住んでいる老人の生命の危機を救ったのは、現在の私のルームメイトであるニシちゃんだった。


そもそも、私たちがこの老人を知るようになったきっかけは、今年の夏のはじめにさかのぼる。7月のなかばごろ、建物の半地下階にある私たちの部屋の、私が寝室として使っている場所に液体が漏れてきた。近所に住んでいる大家の女性にそのことを知らせたところ、状況を確認することになり、その途中で上階のアパートを訪れることになったのだ。その部屋の住人が老人であることを知って、私はすくなからず驚いた。このあたりに住んでいるのは、たいてい私たちのようにミスカトニック大学に通っている学生で、上階の住人もその例にもれないだろう、と、なんとなくおもっていたからだ。


この件は、上の階の冷房装置が液漏れを起こしていたことが原因だとわかり、私の寝室の天井や壁を補修して、(私が自分の部屋で寝られなかったせいで睡眠不足になったほかは)問題もなく解決した。


ニシちゃん(彼女は、補修工事とほぼ同時期に引っ越してきて私のルームメイトになった)が、上階の老人を頻繁に訪問するようになったのは、この一件の後である。どうやらこの老人は、彼女が専攻している生物化学の分野では名の知れた人物であったらしい。ヨーロッパの出身であることをにおわせる訛りがあるのに加え、おそらく80歳をこえているだろう年齢のこともあって、私は彼の話す英語をうまく聞きとれないことが多かったのだけれども、ニシちゃんにはそれも苦にならないようで(あるいは、それを上回る情熱が彼女にはあるようで)、暇をみつけては上の階に通い、彼とさまざまな議論を交わしていた。


約2週間前のその日(ちょうど晩ごはんが終わったぐらいの時間帯だった)、猛烈な雷雨がアーカムを襲ったときにも、ニシちゃんは上の階の老人の部屋を訪問していた。私は自室のちいさな窓から、だんだん強くなっていく雨脚と、幾度となく繰り返される光と雷鳴のコンビネーションをぼんやりと鑑賞していた。雨が降りはじめて、20分くらいたったころのこと。突然、部屋の中が青白い輝きに満たされたかとおもうと、地の底までもがひっくり返ったかのような轟音が響きわたった。そして、次の瞬間には、頭上にさがっている電灯が、二度、三度と力なくまたたいたあと、消えてしまった。


デスクの上のノートパソコンの画面が発する微かな光だけに照らされた室内が、あいかわらず絶え間なく落ちつづけている雨滴の音に満たされていく。私の携帯電話が鳴ったのは、そんなときだった。いつも自室にいるときと同じ音量に設定されているはずの着信音が、雨音にかき消されて弱々しく聞こえた。相手はニシちゃんだった。すぐに上の部屋に来てほしいと言う。あわてているような口調だったので(彼女にしては、なのだけれども)、真っ暗になっている階段に苦労しながらも、いそいで行ってみると、老人の部屋も停電して、闇に沈んでいる。なんどか足を踏みいれたときには常にその音が聞こえていた記憶のある空調も止まっており、そのせいか、部屋に満ちている漢方薬のようなスパイスのようなにおいを余計に強く感じた。


ニシちゃんが早口で(これも、彼女にしては、だったが)説明するところによれば、このまま空調が止まった状態だと、老人の健康状態に悪い影響が出る可能性があるらしい。それを回避するための薬を、ニシちゃんは研究室までいけば手に入れてくることができる。それまでのつなぎのために、私には氷を買ってきてもらいたい。


私は(近所がどのあたりまで停電しているかわからなかったので)車で開いているコンビニエンスストアかガソリンスタンドをさがしにでかけ、ニシちゃんは、まだ降りつづいている雨の中、歩いて大学構内にある研究室にむかった。すこし走ってみると、アパートの近所は完全に暗闇の中だったけれども、ミスカトニック川の対岸には電気がついている建物が見える。川をわたって、まず目に入ったちいさな食料品店で大袋の氷をいくつも買って(バスタブがいっぱいになるくらい、というのがニシちゃんと老人の注文だった)、老人の部屋にもどる。玄関のドアを開けてまず気がついたのは、室内の気温がさきほどよりも明らかに上昇していることだった。もっとも、外(や、私とニシちゃんの部屋)の温度に比べたら、まだ涼しいくらいではあったので、ふだんはよほど強く冷房を効かせているのだろう。それも、健康状態の維持に必要なことなのかもしれない。


入っていくと、老人は、バスタブに溜めた水の中につかっていた。そこにさらに氷を入れるように、と指示されたので、そのようにする。頭の上にも氷がほしい、と言われたので、熱があるのかとおもったのだが、そういうわけではないようだ。小袋に分けた氷を額にのせるときに触れてみると、ざらついた皮膚からはふつうの体温ほどのあたたかみも感じられず、むしろ冷たすぎるくらいだった。


ニシちゃんはなかなか帰ってこなかった。もともと、アパートから彼女の研究室が入っている建物までは、歩くと往復で30分ほどかかる。さらに、大学構内も川のこちらがわにあるので、研究室も停電している可能性が高い。だから、予想していたことではあったけれども、老人は時間がたつにつれ、いらだちはじめたようだった。室内の温度は上がってきていた。雷雨がくるまでは外は蒸し暑く、建物内に取り残されたその残滓が、空調が切れたあとの部屋にゆっくりと忍び込んできているようだった。はじめにバスタブに入れた氷はあらかた溶けてしまい、二度目に追加すると、もうあまり残らなかった。私が様子を見ようと懐中電灯をむけると、老人は、まるでそれだけでも温度が上がる、と言わんばかりに、手を振って光を払いのけるのだった。


結局、一時間ほどしてニシちゃんは戻ってきた。手にビニール袋をひとつ持っていて、そこに注射器が入っているのは懐中電灯の明かりでもわかった。老人は私が話しかけてもほとんど反応をかえさなくなっており、残った氷水の効果にすこしでも多くあずかろうとするのか、体をすぼめて、バスタブにつかっていた。もともと細く、皺だらけだった体が、全体的に縮みかけているような印象さえ受けた。


ニシちゃんは、バスタブの横にかがみこんで、袋から注射器を出すと、老人の片腕をとった。そして、痩せた肘のあたりを何度か場所を定めるようにさわったあと、針を打ちこんだ。


こういうわけで、上階の住人は今日も元気にしている。最近は、アパートの近くを散歩しているところも見かけるようになった。これまでは一度も、建物の廊下にですら出ているところを見なかったのだけれども。ただひとつ気になるのは、彼の動きが軽快になるにつれて、彼を屋外で見る機会が増えるにつれて、彼の顔の血色は悪くなっているように感じることだ。もちろん、この点は、光線の具合などで異なっているようにおもえるだけかもしれないし、私のおもいすごしかもしれない。


いまでもニシちゃんは、老人の部屋を頻繁に訪問している。そのときはいつも、ビニールの袋に入った注射器を携えている。