ミスカトニック大学大学図書館の中の人が『本棚の中のニッポン』を読んだら



『本棚の中のニッポン: 海外の日本図書館と日本研究』(著: 江上敏哲)は、2012年5月に笠間書院から発売された本です。私自身がアメリカにある大学の大学図書館の日本語コレクションをあつかう部門でアルバイトしていること、それから、大学院でいわゆる「日本研究」の範疇に含まれる研究をしていることから、とても興味ぶかい内容の本でした。このブログにふだんポストしていることとは若干、方向性がちがうような気もしますが、まるっきりはずれているわけでもないので、この本を読んで感じたこと、考えたことをちょっと書いてみようとおもいます。


ところで、感想を書くまえに、すこしおことわりをしておくと……

  • タイトルでは(キャッチーにするために 笑)「中の人」としていますが、私の大学図書館での立場は上にも書いたように「大学院生アルバイト(Graduate hourly)」で、非常にかぎられた業務にしか携わっていません。ウチの図書館の日本語コレクションのほんとうの「中の人」は、私の直接のボスの「日本語/日本研究司書」の人、ということになります。『本棚の中の〜』に登場するライブラリアン・コミュニティへの参加、それらとの連携のような仕事も、すべてボスがやっています。
  • 私は図書館学のバックグラウンドを持っておらず、司書過程の授業や司書講習といったものを受けたことも、日本、アメリカを問わずありません。アルバイトとしての最低限の研修は受けましたが、図書館学プロパーの方が必修として習得しているような選書論や分類法について学習したことは一度もなく、実際の業務でも選書やカタロギングはしていません。図書館については知らないことだらけです。


さらに、自分自身も「日本研究」の一部をなす研究をしていたり、「日本研究」をしている大学院生の友人がいたり、将来の「日本研究」者をめざす学生に日本語を教える授業をTAとして担当していたこともあったりで、この本があつかっているトピックに対する私の立ち位置というのは、「ライブラリアン」と「利用者」の中間あたりの、とても中途半端なところにあるような気がします。この感想は、そんな場所からの視界であるということを気にとめておいていただけると幸いです。


あ、あと、この感想は、この本の発売に際しておこなわれたイベントについての報告や、その場で行われたであろう質疑、読書会やオンラインでおこなわれたであろう意見交換や、それらのまとめなどに一切、目をとおさずに書いています。読みかたにバイアスがかからないように、といえば聞こえはいいかもしれませんが(笑)、実際のところは時間がなかっただけです。これをポストし終えたら、そういったものを読んで、自分の感想を修正していけたらな、とおもっています。(なので、どこか、これは読むべき、という場所があったら教えてください。)というわけで、既出の感想や意見と重なる部分がたくさん出てくるかもしれませんが、ご容赦ください。(追記: 末尾にはてなブックマークetc. 経由でみつけた関連リンクを追加しました。自分用メモも兼ねて)


と、前置きが妙に長くなってしまいましたが……


まず、本全体について。あつかわれている内容自体は、北米を中心とした「海外の日本図書館」の組織や業務内容、ライブラリアン・コミュニティの活動、日本研究の動向、日本関連資料の入手先や入手にまつわる課題、といったものなので、本業の研究や仕事でちょっと触れたり、見聞きしたりしたことがあるものがほとんどでした*1。(あ、ウチもJPTと紀伊国屋からよく買ってるよ、とか、ウチにも晧星社のデータベース入ってるよ、とか、そういうレベルのものも含めて……) ただ、名前は知っているけど中身や歴史は知らない、というものも多く(特に3章に出てくるライブラリアン・コミュニティや、11章に出てくる日本国内の専門機関の活動内容や歴史など)、ヨーロッパやアジアの事情のように、まったく知らなかったことがらもあって、いろいろな新しいことを学ぶこともできました。この本が第一のターゲットとしているのは「海外の日本図書館」に資料や情報を発信する側である日本の図書館、文書館、資料館関係の方々ではありますが、海外で「日本研究」をする学生も、自分がいる研究環境がいかにして整備されてきたか、研究環境にどのような制約が、なぜ存在するのかについての理解を深めるために一読しておくといい書かもしれません。(そのためには、この本で使われているレベルの日本語が読みこなせる必要がありますが。あるいは、あえて対象をいじらずに、本書をそのまま英訳したようなものがあってもおもしろいのかもしれないですね。)


(長いエントリなので折り畳んであります。「続きを読む」をクリックすると開きます。)



それから、5章、8章、9章、12章などで言及されている、「海外での研究スタイル」と「日本側からの資料提供のスタイル」の不一致について。私も、英語の文献に関しては、この本に書かれているように、全文検索、全文ダウンロードができるオンラインソースを頻繁に利用して研究していますし、ILL(Inter Library Loan)の手続きをオンラインでおこなって、そこで注文したもの(デジタル化されていない雑誌記事など)のスキャンデータがEメールで送られてくる、といったようなことも日常的に体験しています。大学図書館のホームページにも数年前に、自館のカタログ、OCLC、各種eジャーナルの横断検索ができるディスカバリー・ツールが追加されました。(まあ、これで東アジア関連の検索をしようとすると、いろいろ工夫しないといけないことがあったりするのですが、それはまた別の話。) 研究グループに協力参加したときに他の大学院生、研究者を観察してみたり、友人の研究スタイルを聞いてみたりしても、似たようなスタイルで研究していることがほとんどです。そういうふうに、自分たちにとっては「あたりまえ」になっていることなのですが、日本ではそれが「あたりまえ」な研究者の日常像というわけではないのですね。このような研究スタイルの違いのようなことも、明示的に伝えて知ってもらう必要があるのだな、と、あらためて気がつきました。


ちなみに、実際にアメリカの大学図書館を利用して研究していると、日本で出版された文献が全文検索、全文ダウンロードできないのは不便に感じます。あと、OCLCに参加していない日本の図書館からILLで本を借りる、というのには、なかなか手が出せません。ひとつの理由は、本書にも書かれているように、仕組みがよくわかんないし、自分で手続きができないことが多いから。(司書さんにお願いすれば対応してくれるのでしょうが、だいたい司書さんというのは各言語担当に1人かそれ以下しかいないものなので、全部に即座の対応ができるとは限りません。) もうひとつは、北米の図書館は総体としてみるとけっこう日本語コレクションが充実していて、ほかのOCLC参加館から、わりといろいろなものがワンクリックで取り寄せられるから。あと、私のように日本との人的つながりが濃い場合は、よくわかんない国際ILLを利用するよりも、日本のアマゾンとかで買って、日本の家族や友人から転送してもらうほうが気分的に楽、というのもあります。(これは高価な学術書や貴重書、絶版本では使えない手ですが……) さらに、自分の研究はフィールドワーク(現地調査)を含むものだったので、日本語文献のほとんどは日本でフィールドワークをしているときに、ホストしてくれた日本側の大学の図書館や国立国会図書館で閲覧したり複写したりした、というのもあります。歴史や文学を研究している学生も、研究目的だけだったり、日本語を学ぶついでだったりに日本に行って、そのときに文献や資料を収集してくるケースが多いんじゃないかな。もちろん、国会図書館公文書館が公開しているデジタル化資料も最近は増えてきたので、分野によってはそのへんを頻繁に利用する人もいるとおもいます。(追記: あと早稲田大学の図書館もですね!)


(あと、自分の研究に関係してちょっと愚痴を言うと、ウチの大学図書館は「聞蔵」や「ヨミダス歴史館」のような新聞データベースを入れてくれないんですね。これは伝統的に、ウチの大学で「現代日本」を研究している人が少なくて、研究者が多い歴史、演劇、文学の分野に特化したコレクションをしているからで、しかたがないことなんですが、私の研究にはこれがわりと大きな障壁でした。時々、トライアル契約をして使えるようになっているときもあるんですが、そのタイミングも現代日本をあつかう授業の開講タイミングとあわせたものだったりして、なかなか個人の研究のペースに合致しないことが多いですし。でもまあ、がんばって予算をつけて導入したところで、実際にコンスタントに研究で使う研究者は私をふくめて全学で3、4人ぐらいだろうから、しかたがないんだろうなあ……。日本で似たような時代、分野の研究をしている大学院生の発表を聞くと、だいたい新聞報道の動向をからめた分析をしてたりするので、使える資料の差を感じたりしたものでした。)


もっと細かい部分に目をむけると、図書館の中でよりも外ですごしてきた時間が長いこともあって、図書館サービス的なところよりも、5章であつかわれている「日本研究・資料の現状」が個人的に気になる箇所でした。私はいわゆる「地域研究」(あるいは「東アジア研究」)プロパーの大学院生ではなく、総合的な社会科学分野の学部に所属して日本に関係する研究をしているだけですが、この本で述べられている、海外での「日本研究」が「退潮」傾向にある、あるいは「日本研究」が、日本専門家による日本だけにフォーカスした研究から、地域のつながりの中での「日本」、グローバルな比較の中での「日本」をみる研究に移行しつつある(本書ではそれを「卒業」と読ぼうという提案をしています)、という観察は正しいとおもいます。その理由として、本書でもあげられている「予算がとりやすい」「研究計画がとおしやすい」というのももちろんあるのでしょうが、「『東アジア研究』(特に歴史や文化をあつかった研究)は、東アジアのトランスナショナルな歴史や文化交流を研究するべきであるのに、(ときにナショナリズムとも深くつながった)各国史、各国研究の枠にとらわれてしまっている」という学問分野への自省的な批判も「東アジア」研究者から出されていましたし(これについて私は「東アジア研究序論」的な授業で習いました)、個人的には思想的、学術的にも意味のある進展なのだとおもいます。


また、海外における「日本研究」の「退潮」は、この本にあるように、中国、韓国といった他の東アジアの国々にくらべて日本のe-resourceの整備、提供が遅れている、というのも原因のひとつではあるとおもいますが、アメリカにおいては「東アジア」研究者の「世代交代」とも無関係ではないのかもしれないと感じます。第二次世界大戦後のアメリカにおける「地域研究」(「東アジア研究」も含む)は、長いこと、アメリカで言語、文化教育を受けた「アメリカ人」が担ってきました。「地域研究」と軍事、国防的な興味、要請とは深いかかわりがあるとされ、また日本の経済成長が著しかったころには経済的な興味、要請もあって「東アジア研究」は発展してきました。ですが、冷戦体制の崩壊や日本経済の停滞によって、それらの興味、要請(あと予算も)は縮小傾向にあります。また、軍事、国防的な目的から養成された各国のスペシャリストとしての「東アジア」学者の第一世代は退官をむかえるような年齢に達しています。そうした中で、アメリカの大学における「東アジア研究」の担い手は、「アメリカ人」の研究者から、東アジアからの留学生、および留学生出身の研究者に移ってきているようにみえます。(もちろんこれは、中規模の東アジア研究学部しかもたないウチの大学固有の現象である可能性もあります。もっと大きな東アジア研究学部を持っている大学、たとえばハーバード大学あたりだと事情はちがうかも。) ご存知のように中国や韓国からアメリカに渡る留学生の数は増加、日本からアメリカに渡る留学生の数は減少していますし、そもそも日本出身の学生は、なぜか「アメリカで日本を研究する」ことに価値を見いださないことが多く、来たとしても東アジア研究学部に入ることはあまりありません。(「日本語教育」だけはちょっと事情がちがうんですが、その話は蛇足になるのではぶきます。) そのため、まず、必然的に中国、韓国の研究が盛んになります。そして、これら中国、韓国の研究をする中国出身、韓国出身の学生、研究者は、日本占領時代に興味を持っていることがすくなくありません(占領前、占領中の日本との関係が、それらの地域の「近代化」と、とても深く結びついているからです)し、いわゆる韓流ブームのような、東アジア内での文化交流も人気のある研究テーマです。なので、この世代が担うことになるアメリカにおける「東アジア研究」分野では、「日本」という現在の政治的境界線を区切りにした「日本研究」よりも、「東アジアの他地域とのつながりの中の日本」をみる「日本研究」がより盛んになるのかもしれないな、とおもったりもします。


最後に。主にライブラリアンの/ライブラリアンむけの視点で書かれたこの本で、『本棚の中のニッポン』というタイトルの中の「本棚」がさすものは、第一に「図書館の本棚」です。ですが、「(大学)図書館の本棚」というのは、それぞれの研究者、大学院生が持っている「個人の本棚」と密接につながっていることがよくあります。それは、大学図書館の多くで、専門性の高い分野を担当するライブラリアン(「東アジア研究」、「日本研究」担当もそのひとつです)が、自校でおこなわれている研究を意識したコレクション・ビルディングをしているからでもあるし、その大学で研究をしている教授、学生が使い終わった資料を図書館に寄贈することがあるからだったりもするのでしょう。逆に、研究者や大学院生の「個人の本棚」というものは、それぞれの自宅や研究室の中だけで完結しているわけではない、と言うこともできるとおもいます。彼女ら彼らの「本棚」には、個人で所有している本だけでなく、自校の図書館で利用可能な本、ILLなどを利用して取り寄せることができる本、さらに、いまではe-resourceで検索をして作成したビブリオグラフィーや、e-resourceからダウンロードしてきた論文、資料などが「入っている」わけです。「ニッポン」を研究している研究者のそのような「本棚」には、当然「ニッポン」が入っているでしょう。そして、研究者からの視点でみると、日本の図書館や文書館、資料館などに書籍、資料を請求する行為は、自分の「本棚」を「拡張」したり、「補完」したりするための行為です。


で、ここがちょっと大事なことだとおもうのですが、そのような「ニッポン」研究者の「本棚」に入っている「ニッポン」は、かなりの高確率で「ニッポン人」が知らない「ニッポン」なことがあるのではないか、と私は感じます。(もちろん、日本国内にある「個人の本棚」や「図書館の本棚」の中にも「ニッポン人」が知らない「ニッポン」はたくさん入っているとおもいますけれども。) 特に強くそのことをおもったのは、この夏に、ウチの大学の退官した教授からの寄贈本の整理を任されたときでした。この教授は、戦後日本の大衆演劇を専門に研究していた先生で、その専門的な蔵書には、私がまったく知らなかったような資料が、書籍、脚本、grey literature(パンフレットなどの非正規刊行物)とりまぜて入っていました。もちろん、私がものを知らなさすぎるだけで、その演劇を同時代でみていた人、博覧強記な人、その分野に興味のある人にとっては「当然」なコレクションだったのかもしれません。ですが、この教授の「本棚」の中にあった「ニッポン」は、すくなくとも私は知らなかった「ニッポン」でした。市町村史、移民史、差別史、民間芸能、LGBT研究……。海外にある研究者の「個人の本棚」や、その延長としての「図書館の本棚」には、そんな「ニンジャ・フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」でも、「ノウ・カブキ・ジョウルリ・ウキヨエ」でも、「クールジャパン」でもない「ニッポン」が入っていることがよくあります。『本棚の中のニッポン』を読んで、日本から海外に情報発信をする「援軍」になりたい、なってもいい、とおもわれた方には、そんなこともちょっと心にとめておいていただけるとうれしいな、と、僭越ながら考えたりもします。


蛇足や的外れのことを書いている箇所もあるかとはおもいますが、以上が私が『本棚の中のニッポン』を読んだ、現時点での感想です。これから他の方々の感想や批評なども読んで、感想を修正していきたいとおもっています。この文章に対するご感想、ご批判なんかも、なにかありましたら。


本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究


最後の最後に。実は、私がこの本を「読みたい!」とTwitterで騒いでいたら、友人でフォロワーでもある[twitter:@yuki_o]さんが本書の著者の江上敏哲氏とつなげてくださり、江上氏から著書のご恵投をいただいてしまいました。これがお礼になっているかどうかはよくわかりませんが、今回はありがとうございました。



関連リンク:
第149回ku-librarians勉強会 : 読まなくてもわかる『本棚の中のニッポン』 - Togetter

『本棚の中のニッポン』Q&A集 #kul149 #本棚の中のニッポン - Togetter

http://kasamashoin.jp/2012/07/post_2360.html (このジュンク堂は池袋店ですね。なつかし)

ふだん意識しない「海外にあって日本語/日本の本・情報を求める人」に気づかせ、できることを考えたくなる本:『本棚の中のニッポン』 - かたつむりは電子図書館の夢をみるか(はてなブログ版) (この感想エントリが、わりと上記の私の感想と「逆」の立場から書かれた感想といえるかも)

「国境を越えた知の流通 過去・現在・未来:海外の日本図書館から考える」和田敦彦×江上敏哲トークセッション(『本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究』 (江上敏哲著 笠間書院)刊行記念) - かたつむりは電子図書館の夢をみるか(はてなブログ版)

江上敏哲『本棚の中のニッポン』読書メモ - みちくさのみち(旧)

『本棚の中のニッポン』blog

http://d.hatena.ne.jp/xiao-2/20120610/1339298896

『本棚の中のニッポン』の感想 - Girls' Talk

http://taniwataru.blogspot.com/2012/06/blog-post_25.html?m=1

えがみさんのこと #本棚の中のニッポン - ささくれ

*1:もっとくわしい内容については、笠間書院さんのこちらのページをご参照ください。→ http://kasamashoin.jp/2012/04/post_2268.html